半坪ビオトープの日記

豊楽寺


岡山城下を発して北に向かい、建部を経て津山城下に入る道が、備前と美作を結ぶ津山往来であるが、その途中の建部町に静謐山豊楽寺(ぶらくじ)がある。高野山真言宗美作八十八ヶ所第二十一番札所である。寺伝によれば、和銅2年(709)玄硃が開山したしたといわれ、その後、奈良時代に鑑真が堂塔伽藍を整備したと伝わる。本堂裏の経塚(土仏塚)から出土した平安時代中期の土仏は、寺の由緒を物語る。本堂の右手前に立つのは大悲殿、奥に建つのは護摩堂である。

室町時代には美作国守護大名、赤松氏並びに山名氏の庇護を受け寺領を与えられ、往時は本堂・五重塔他16の堂宇と22の僧坊があった。しかし、安土桃山時代天正年間(1573-92)備前国北西部を制した松田氏が、日蓮宗への改宗を迫ったが応じなかったため、寺領を没収し寺院を破却した。その後、寛永年間(1624-44)に津山藩初代藩主・森忠政が寺院を再興した。
本堂手前に建つ豊楽寺の大悲殿の由来は不詳。普通、大悲殿とは聖観音如意輪観音などの観音菩薩が安置されている建物である。

現在の本堂は、貞享3年(1686)に建立されたもので、入母屋造妻入向拝付き、桁行3間梁間4間の桟瓦葺き、本尊は薬師瑠璃光如来像。明治の初めまでは、本坊・東坊・西坊・南坊・向井坊の5坊があったが、現在は本坊のみ残る。

豊楽寺には、正平7年(1352)左衛門尉正道遵行状を最古に、宝暦12年(1762)豊楽寺僧徒へ申渡條々までの400年間の文書がある。文書の大半は、室町時代から江戸時代にかけての寺領(田畑)の寄進状が11通と豊楽寺由緒書、勧進帳、永代帳などである。在地国人層の動向や庶民の信仰生活と寺院生活などの様相がわかる貴重な資料として、岡山県の重文に指定されている。

本堂の奥に建つ護摩堂は、床面積が14.44㎡。平成17年(2005)に建立されている。

護摩堂の左手前に小さな社が祀られているが、詳細は不明である。

三つのお堂の右手前には鐘楼が建っている。

よく見ると、高い下見板壁の袴腰の上に高欄を巡らした造りで、重厚な桟瓦葺きの屋根の上には大きな鬼瓦が睨みを効かせる、たいへん豪壮な鐘楼である。

お堂の右手には大きな宝篋印塔が立っているが、詳細はわからない。

さらに右手の小門の奥には客殿のある一角が続き、小門の手前には石造の観音像が立っている。

客殿のある一角に入る、二階に花頭窓を設けた門構えが一風変わっている。