妙泉寺の東にある長谷寺(ちょうこくじ)は、大同2年(807)に弘法大師の創肇なりと『古伝縁起』に記される佐渡屈指の真言宗の古刹である。寺号は地形が大和の長谷寺に似るところから、「里を長谷と称し、山号を豊山、寺号を自性院長谷寺と称せり」とある。山麓に建つ仁王門は、三間一戸の八脚門で、切妻造桟瓦葺。後間に平安時代後期の作という仁王像(金剛力士像)を安置し、円柱で禅宗様出組を詰組とし、二軒繁垂木。享保3年(1718)の建立で、天明元年(1781)に改修されている。特徴的な蟇股をもつ。
本堂は桁行21m、梁間14mの寄棟造茅葺(鉄板仮葺)で、山腹に南面して建っている。非対称の六間取方丈形式を基本に、後列両端室を前後2室に分け、南・西面に広縁、東面に居室を設ける。後列中室に須弥壇を構え、二手先組物や蟇股を飾る。建築年代に関わる棟札が2枚残されていて、「安永6年(1777)」と記されている。本堂東方に南面して建つ庫裏は、桁行19m、梁間14mの入母屋造妻入茅葺(鉄板仮葺)で、建築年代は本堂と同じ1700年代後期と考えられている。
本堂西側には不動尊を祀る護摩堂が建ち、護摩堂北側に鐘堂が接続し、鐘堂は楼門風の作りで、腰組の雲竜彫刻は秀逸である。鐘堂脇の歴史を感じる石段の先には規模の大きな観音堂が南面する。鐘堂から石段沿いに回廊を登らせ、観音堂際に建つ札所へと至る。
大悲殿・観音堂は、正長年間(1428〜31)に智円和上が再建し、現在の建物は元禄4年(1691)に改修されたものである。規模の大きな五間堂で、外陣・内陣・脇陣からなる。
観音堂内の内陣後方の各間に厨子を安置する。側柱を方柱、入側柱を円柱とする。内陣天井に梵字を飾る。宝暦10年(1760)と明治21年(1888)にも改修されている。
長谷寺は「花の寺」として知られ、5月上旬には約20種類、1,000株のボタンの花が満開となる。こちらの花は、カタバミ科のミヤマカタバミ(Oxalis griffithii)。本州、四国、九州に分布し、山地の林下に生える。佐渡は植物の数が多く、約1,700種にも及ぶという。それは佐渡が位置する北緯38度線が、北方植物の南限であり、南方植物の北限ラインだからといわれている。サドノウサギ、サドトガリネズミなど佐渡特産の動物は多いが、特産の植物はほとんどない。しかし、オオアカバナ、ヒトモトススキなど絶滅危惧種は多く残っている。
この苔むした五輪塔は、竹村奉行の墓である。寛永年間(1624〜44)に奉行の竹村弥太郎が、当寺に参拝して本尊の開帳を強要した。住職が断ると奉行は自分で強引に開扉しようとしたが、突然両目が盲目となった。仏罰を悔い、自分の傲慢を謝罪して、田畑を寺に寄付したという。
石段をさらに上がったところに建つ五智堂は、貞享4年(1687)、時の長秀住職により建立された多宝塔である。斗供の形式や木割が古風である反面、外陣天井に放射状の矢羽根文を大胆に用いている。堂内には五智仏(阿弥陀如来:西、釈迦如来:北、大日如来:中央、薬師如来:東、宝生如来:南)の金剛界の五仏が安置されている。
中央扁額には「五智殿」と記されている。この五智堂(多宝塔)の内陣は、円形平面を持ついわゆる大塔形式で、全国でも数少ない貴重な建物とされる。