半坪ビオトープの日記

長谷寺、本堂


参詣途中に見たように、長谷寺本堂は、典型的な懸造であり、室町時代末再築の寄棟造の五間堂である。数度の改変を経て江戸時代後期に現在の形に定まった。

伯耆民談記』等に伝える寺伝によれば、養老5年(721)法道を開山として創建されたという。当初は長谷村(ながたにむら)にあった十一面観音像を、都志都古(としつこ)という人が現在地に移したという。中世には禅宗寺院であった。弘治3年(1557)南条元次が打吹山に籠って豊臣秀吉と戦った折、堂塔はもちろん寺域一帯焦土と化したが、観音堂だけが難を逃れた。寺領を失い衰退するが、慶長15 年(1610)米子城中村一忠によって再興され、天台宗に転じたという。

本堂内に保存されている梵鐘は、総高81cmの小さなものだが「明徳四年(1393)」の銘をもち、陰刻銘から元は作州布施荘長田村の牛頭天王社に奉納されていたことが知られる。

本尊は、本堂内厨子に安置される、室町時代初期(14C)作の木造十一面観音菩薩座像である。像高101cmの檜寄木造りで、倉吉市の指定文化財だが秘仏とされる。

本尊を安置する禅宗様の厨子は、室町時代作の入母屋造杮葺きで、国の重文に指定されているが、覆いがされてよく見えない。

厨子の右手には不動明王が安置され、その右に薬師如来が安置されている小さい厨子日光菩薩月光菩薩の脇侍が安置されている。

横堂には、弘法大師が祀られている。

長谷寺には、享禄4年(1531)から明治時代までに奉納された絵馬が63点も収蔵されている。近年、倉吉博物館で一同に公開されたという。

当時の庶民信仰や民俗等を知る貴重な資料で、中には描かれた馬が額から抜け出し田畑を荒らしたという伝説を持つ絵馬もある。風俗画、武者絵、歌舞伎絵、宗教画などバラエティに富む。その多くは庫裡に保管されている。

帰り道で、大山寺でも見つけたトキワイカリソウ(Epimendium sempervirens)を見かけた。主に太平洋側に自生するイカリソウとそっくりだが、主に北陸から山陰にかけての日本海側に自生するトキワイカリソウである。トキワ(常葉)というように、冬に枯れるイカリソウと違って冬の間も枯れない葉があるのが特徴だが、古い葉はたまたま見当たらないのだろう。葉の形は、卵形から長楕円形で、基部は深い心形となり、先端はイカリソウより尖って尾状に伸びる。葉質もイカリソウより堅くて光沢がある。