半坪ビオトープの日記

志呂神社


同じ建部町の豊楽寺から2kmほど北の、三樹山の麓に志呂神社がある。志呂宮の名で親しまれている。向拝を設けた拝殿の後ろに、これまた長大な向拝を備えた本殿が厳かに構えている。

社伝では、美作国備前国から分国した和銅6年(713)に、弓削庄27カ村の総氏神として祀られたと伝えられる。拝殿には重厚な向拝が設けられているが、施されている彫刻はそれほど精緻なものではない。当神社には「志呂神社文書」が保存されている。昭和15年(1940)まで続いた、志呂宮の春秋二度の大祭における、御供米(段米)の奉納の形態(宮座)が記されている、鎌倉後期の最古の宮座資料である。正安4年(1302)に作成され、何度も書写されてきた文書である。

主祭神として事代主命を祀り、相殿に大国主命を祀る。古くは神主他20名余りが奉仕し、社領70石を有し、神宮寺もあったと伝えられている。秋祭りには、久米南町京尾の氏子から供えられる、志呂神社御供という神饌行事がある。団子で作った「フト」と称する女陰を形どったもの3個と、男根を象徴した「マガリ」1個、餅で作った「丁銀」3個、それに米飯一盛り、柚子1個、箸1膳、榊葉若干を三方に盛った7膳の熟饌が調整され、御幣を立てた唐櫃に入れて御供所に運ばれ、紋付袴に榊葉を口にした7人の頭人によって供饌される。通称「京尾御供」と呼ばれ、県の重要無形民俗文化財に指定されている。

現在の本殿は、嘉永元年(1848)の再建で、平面方3間(実尺方4間)の総檜造、単層入母屋造妻入である。屋根は檜皮葺だったが、昭和40年に銅板葺に改修された。屋根上に千木・鰹木を置き、正面に重厚な唐破風付き向拝を設けた、やや変形した中山造の建物である。

旧弓削荘の一宮で、明治時代前期頃まで、旧弓削荘内数社の神輿が参集する立会祭が行われていた。中山造とは、津山市美作国一宮・中山神社本殿を代表とする、津山市一帯の本殿に見られる独特の様式で、方3間の入母屋造妻入の身舎正面に1間の向唐破風の向拝を付す。このように突き出た向拝に特徴がある。

造営から170年ほど経過しているせいか、素木造りのように見えるが、大隅流の尺墨で有名な、邑久郡宿毛の宮大工・田渕伊之七一門の建築で、各所に丸彫の彫刻を配した近世末期の優れた神社建築とされる。

向唐破風の向拝を支える突き出た虹梁の上にも何やら彫刻の連なりが認められる。
志呂神社の秋祭りには、「棒遣い」という神事が奉納される。宮棒と称するお祓いの神事で、竹内流棒術を元に工夫・伝承されてきたとされる。鬼面・天狗面をつけ、六尺の棒を打ち交わして魑魅魍魎を祓い清めるという。

本殿のすぐ右手にある天満宮は、1間社流造の檜皮葺(昭和40年に鉄板葺に改修)、花崗岩切石製の低い基壇の上に南面して建つ。本殿と同じく嘉永元年の建築である。

天満宮のさらに右手に、伊都伎神社がある。伊都伎神社は兵庫県丹波市にあるので、そこから分祀されたものと思われる。丹波の伊都伎神社は、祭神として淤母陀琉神(おもだるのかみ)と妹の阿夜詞志古泥神(あやかしこねのかみ)を祀っている。この二神は、『古事記』では国之常立神に続いて天地開闢の最初に現れた神世七代の第六の神である。

本殿のすぐ左には、傷みの激しい総神社がある。右手の天満宮と対の瑞垣の内にあるので、名前からすると地主神を集めたものと思われる。

総神社のすぐ左後ろには、古神輿舎がある。文化2年(1805)〜平成12年(2000)の表示があるので、新旧の神輿が安置されていると思われる。

古神輿舎の左手にも二つの社がある。左が加志伎神社で、右の小さいのが愛宕神社である。加志伎神社の由緒は残念ながら不明である。しかし、本殿を挟んで右手の伊都伎神社と対の位置にあるので、私見を述べるとすれば、伊都伎神社の主祭神淤母陀琉神の妹神・阿夜詞志古泥神を祀っていると思われる。阿夜詞志古泥神(あやかしこねのかみ)は、吾屋橿城尊(あやかしきのみこと)の別名もあるので、美称のあやを取れば、かしきの神となる。つまり、伊都伎神社と加志伎神社で、淤母陀琉神と阿夜詞志古泥神を対で祀っているのであろう。ちなみにこの二神の次に、第七代として伊邪那岐神伊邪那美神が現れる。

志呂神社の背後にある三樹山樹林は、鎮守の森としてほとんど手が加えられず、シイノキ、ヤブツバキ、シリブカガシなど、原始的な植生に近い常緑広葉樹林帯となっている。