半坪ビオトープの日記

平川市の猿賀神社


盛美園の西500mに猿賀神社と鏡ヶ池を囲む猿賀公園がある。鹿角の猿賀神社と同じく、蝦夷討伐の将・上毛野君田道命を主祭神として祀る。境内は約16,000坪の広さを有し、鏡ヶ池・見晴ヶ池の二つの大池がある。石造の一の鳥居を潜ると朱色の二の鳥居である両部鳥居があり、その先に石造の三の鳥居が見える。

二の鳥居の先の右側には、天台宗の猿賀山蓮乗院が建っている。仁王門の左手に、蓮乗院の本尊である一光三尊来迎阿弥陀如来像についての標柱があり、「天正13年猿賀十二坊為信に一山破却さるより約30年津軽越中守信枚公により復興される。中央本尊は鎌倉時代の造作と推定されるが後背、台座、脇師は文政時代の作である。平川市文化財」とある。

参道を進むとすぐ左手に、古くから猿賀山深沙大権現堂の別当の猿賀山長命院神宮寺がある。仁王門には金剛力士(仁王尊)が安置され、大きなわらじも奉納されている。

天台宗神宮寺は藤原秀衡、阿倍師季、円明坊らが修復再建し、江戸期を迎え天正14年(1586)領主津軽為信が再興し祈願所とする。しかし南部家との対立もあり神宮寺と支院十二坊は壊され、曹洞宗に改宗されて別当も最勝院が務めることになる。元和年間(1615~23)津軽信枚が天台宗にかえし復興された。

三の鳥居を潜ると参道の右手には池上神社があり、少彦名神を祀っている。その先右手の鏡ヶ池には、事代主神を祀る日吉神社市杵島姫命を祀る胸肩神社、さらにその右手の見晴ヶ池には恵比寿神社がある。

猿賀神社の社伝によれば、仁徳天皇55年(367)天皇の命を受けた上毛野田道将軍は東夷征討の途中で戦死したが、その霊は南部鹿角郡猿賀野に祀られた。欽明天皇28年(567)に大洪水があり、田道命の神霊が白馬にまたがり漂木を船として鹿角よりこの地に流れ着いたという。

その後、延暦年間(782~806)坂上田村麻呂蝦夷征討の際、苦戦する田村麻呂が田道の神霊に導かれて賊を平定するに至り、これに感謝して田道の霊を当地に遷座したのが始まりとされ、大同2年(807)には勅命により社殿が造営されたと伝える。
拝殿の向拝が3間と大きく、向拝下虹梁の龍の彫刻も3ヶ所設けられている。

後に仏教の守護神である深砂大王と習合し深砂大権現と呼ばれた。江戸時代には津軽為信津軽藩主が祈願所とし、猿賀山長命院と号する修験道場となった。明治の神仏分離で猿賀神社と改称した。
主祭神として上毛野君田道命を祀るが、相殿神として保食神も祀る。

細かくいうと、「日本書紀」には田道命は伊峙水門(いしのみと)で敗死したとあり、その伊峙水門には上総国夷灊(いしみ)郡(旧千葉県夷隅郡)説と陸奥国牡鹿郡石巻説とがある。しかしここの社伝によれば、敗死した田道命は従者によって当地に埋葬され、後に蝦夷がその墓を暴いたところ、田道命の遺体が大蛇と化して毒気を吐いたので、人々が恐れて現在地西方の鹿角の猿賀野に祀ったのに始まると伝える。
拝殿の後ろは玉垣に囲まれた空き地があり、その先の石垣の上に、中門と瑞垣に囲まれた本殿が厳かに建っている。

本殿は、梁間(奥行)を3間とする三間社流造である。文政9年(1826)の造替えで、簡素な素木造であるが規模は大きい。三間社流造では梁間を2間とするものが多く、3間とする場合には前面1間分は前室とする形式が多いが、当社の本殿は前室を設けず身舎梁間全体を3間とする点が珍しく県の重宝とされる。

社殿の右手には神霊碑がある。参道入口に建つ馬蹄形の鳥居のようなものには、猿賀大神と書かれている。

神霊碑には、上毛野君田道命と書かれ、猿賀大神を祀っている。