半坪ビオトープの日記

巖鬼山神社


岩木山山麓は大きく見積もると直径30kmもあり、南麓には壮大な岩木山神社があるが、北麓の鬱蒼とした杉林の中に、巖鬼山(がんきさん)神社がひっそりと鎮座している。赤い両部鳥居の一の鳥居は、大きく堂々としている。

参道の両側に真っ直ぐに屹立する杉林の奥に、二の鳥居と三の鳥居が重なり、その向こうに拝殿が構えている。

社伝によれば、延暦15 年(796)、岩木山北麓に巖鬼山西方寺観音院が創建され、十一面観音を祀ったのが最初という。大同2年(807)に坂上田村麻呂が再建した。

元禄7年(1694)の「百沢寺光明院縁起」では、寛治5年(1091)に神託により100の沢を越えて南麓に遷り、百沢寺と称したとみえる。百沢寺は明治時代初期の神仏分離で廃寺となり、岩木山神社となった。この岩木山神社の旧地が巖鬼山神社であり、明治6年(1873)に巖鬼山神社と改称した。岩木山神社の鎮座地が百沢というのは、当社から百の沢を越えて遷って行ったからだという。

文安5年(1448)に社殿を焼失したが、長見氏によって寛正4年(1463)に再建された。その後、藩祖津軽為信が修復し、慶長9年(1604)には為信の長子信建が鰐口を奉納している。

拝殿内には、奉納された農具や絵馬、大きな鬼の面などが飾られている。

仏堂風の本殿(県重宝)は、棟札によって、元禄4年(1691)に造営されたことがわかっている。本殿や厨子は、江戸時代の観音堂が神社になった典型的な例とされ、細部の様式なども時代の特徴をよく残している。
古くは十腰内観音堂といわれた。巖鬼山神社がある十腰内(とこしない)という地名の由来は、「強力の刀鍛冶鬼神太夫が十振の刀を打ち出して自慢したが、一振飛んで杉に突き刺さったので里人はこれを神として尊敬し、九振が残ったために十腰無い村とよんだ」という言い伝えがあるので、製鉄を連想させる逸話のある地名といえる。

岩木山信仰は、もともとは巖鬼山神社や鬼神社を中心とする北麓が中心だったものと考えられ、ここには、南麓の百沢寺(岩木山神社)に信仰拠点が移る前の古い山岳信仰の形態が残されている。
津軽俗説選」によれば、ここの観音は、津軽三十三観音第5番札所で、久渡寺(弘前市)の観音(第1番札所)と入内(青森市)の観音(第24番札所)とともに1木3体の尊像で、1日でこの3体を巡拝すれば所願成就するといわれてきた。
祭神として、大山祇神を祀る。

社殿に向かって左に樹齢1000年、高さは41mを越えるという、大杉(県天然)が2本立っている。県内最大といわれる。

社殿の手前右側に、龍神社が祀られている。その手前の鳥居には龍の絵馬が奉納されている。

参道入口に近い右側、小川が流れる低地に、境内社が三つほど祀られていたが、これも龍神社と思われる。