半坪ビオトープの日記

鬼神社


岩木山は、古くから信仰の対象にされ、山頂には岩木山神社奥宮があり、南東麓には岩木山神社や高照神社が祀られている。岩木山山麓にはほかにもいくつも神社があるので、主なものとして東麓の鬼神社と北麓の巖鬼山神社を見て回った。
岩木山東麓の鬼沢集落にある鬼神社は、通称「おにがみさま」「おにじんじゃ」とも呼ばれるが、正式には「きじんじゃ」という。参道入口には赤い大鳥居が立ち、その一の鳥居を潜ると、二の鳥居と三の鳥居が続いて立っている。両部鳥居の二の鳥居には、珍しく大きな俵型の注連縄が張られている。右の社号標も異様にばかでかい。大きな一の鳥居に架かる扁額「鬼神社」には、鬼の頭のノがなく、角のない優しい鬼として村人から慕われている。

三の鳥居を過ぎたところで左に直角に曲がり、さらに春日神社を過ぎて左に曲がって、大きくUタウンするように参道が戻ってきて四の鳥居(本鳥居)へ続く。いろいろな形をした狛犬や神使、大きな石灯籠の向こうに拝殿が構えている。本鳥居の扁額の位置には、「卍」字が掲げられている。津軽藩氏の軍旗や弘前市のシンボルマークにも用いられているというが、その由来は定かではない。

創祀年代は不詳だが、社伝によると、延暦年間(782~806)に坂上田村麻呂が東征の折、岩木山本官の高照姫命の霊験を受け、岩木山北麓の巖鬼山西方寺観音院を創建した際に、あわせて勧請した鬼神社が、のちに現在地に移転したという。
また伝説によると、村人の弥十郎岩木山中で山の「大人(おおひと=鬼)」と親しくなり、開墾した田の水不足を話すと、大人は王余魚沢(かれいさわ=現、青森市浪岡)から水を引き上げてくれた。村人はこれを「逆さ水」と呼び、大人の使った鋤や蓑笠を堂に納め、鬼神社として崇めたという。そのため、拝殿の壁には、額に入れられた大きな鋤や鍬・のこぎりなどの鉄製農具がたくさん奉納されている。

鬼沢集落は鬼を祭神として崇拝しているため、節分では豆まきをせず、端午の節句では菖蒲を屋根に刺さない風習がある。旧暦元旦には、村の若者から壮年の男性が水垢離をとり、集団で、まわし1本でトシナ(大注連縄)を担ぎ、鬼神社を始めとする地元の神社に奉納して、その年の豊作を祈るハダカ参りが行われる。二の鳥居に掲げられていた俵型の注連縄が、そのトシナではないかと思われる。また、旧暦1月29日には稲作の豊凶を占う七日堂祭も行われる。

拝殿の後ろに少し離れて流造の本殿が建っている。鬼を祀っているとはいうが、祭神としては高照姫神、伊奘那岐大神、大山祇神を祀っている。

本殿の右にはなれて保管庫が建っている。確かではないが、大人=鬼が使ったとされる御神体である「鍬(千年前の作)」は、本殿ではなくここに保管されているのではないかと思われる。

赤倉山の鬼神を祀る鬼神社は、明治6年(1873)に改称するまで赤倉山鬼神大権現と呼ばれており、巖鬼山神社より遷座したと伝えられている。境内には天保11年(1840)建立の鬼神大権現の石碑が建っている。

鬼神社には狛犬が数組奉納されている。こちらの馬は神使といえるが、その下の太った魚は何だろう。狛魚というよりは、大漁祈願だろう。昭和53年に奉納されている。

拝殿の正面になる参道の右手に赤い鳥居が立ち、干上がりかけた池の中の島に、小さな弁天社が祀られている。

弁財天は池の中の島に祀られていることが多いが、元来はインドの河神であり、日本古来の水神や記紀神話海上神である市杵島姫命宗像三女神)と神仏習合したためと考えられている。

鬼神社の社殿に向かう参道で曲がったところに、赤い鳥居を伴って春日神社が祀られている。扁額の文字は残念ながら読めない。

春日神社の脇には由来が書かれた額が掲げられている。年代は不詳だが、古く京より勧請され、近くに祀られていたが、河川改修工事のために昭和47年にこの地に遷ったという。