半坪ビオトープの日記

足助八幡宮


巴川から土産物通りを進み、大駐車場の手前で右に折れると、国道の向こうに木立に囲まれた足助八幡宮が建っている。

木製の大鳥居は寛政12年(1800)に改築されたもので、道路工事のため平成14年に正面から現在地に移動した。

室町時代に書かれた「足助八幡宮縁起」によると、天智天皇の時代(668~671)に三河国宝飯郡大深山(現、本宮山)に現れた猿形・鹿形・鬼体のうち、猿形は石船に乗って西に飛び猿投神社に、鹿形はその地に留まり砥鹿神社に、そして鬼体は足助に飛来し、それをきっかけに足助八幡宮が創建されたと伝えている。
主祭神として品陀和気命(応神)を祀り、帯中日子命(仲哀)・息長帯比売命神功皇后)ほかも合祀している。

伝承によれば、創建は天武天皇白鳳3年(663)とされるが、足助八幡宮では白鳳2年(673)としている。八幡宮には多くの絵馬が奉納されており、そのうち慶長17年(1612)に奉納された扁額鉄砲的打図板額は、俗に鉄砲絵馬と呼ばれ、老翁が日の丸の扇の的に射撃を行う姿が大和絵の手法で描かれている。鉄砲を描いた扁額は全国でも他に3枚しか現存しない珍しいもので、東京オリンピックの際に射撃競技プログラムの表紙に使用された。
昔から「足を助ける神」として信仰され、拝殿にもわらじが奉納されている。

拝殿の左手(西)にはいくつか小さな末社が祀られ、その左に古めかしい金毘羅社が建っている。

拝殿と金毘羅社の間の末社は、右から朱色の天満社・秋葉社・塩釜社である。

本殿は拝殿に隠れて正面からは見えないので、左手から眺めるしかない。現在の本殿は文正元年(1466)に再建されたものである。桧皮葺の三間社流造で、地方の神社としては妻飾り・象鼻・手挟など室町時代の建築の特色をよく残し、特に向拝の蝦虹梁の意匠はすこぶる奇異で珍しいといわれる。国の重文に指定されている。

境内の左手社務所前には、市指定天然記念物の大イチョウが聳えている。

かつて足助八幡宮は今より広い社域をもち、明治初期までは神宮寺も所在した。神宮寺本尊は国道を隔てた十王寺にあり、社域には今でも神宮寺の名残である鐘楼が残されている。しかし、梵鐘は明治維新神仏分離の際に売られ、ここには残っていない。

足助八幡宮の右手(東)にも幾つかの末社が祀られている。御嶽社・稲荷社・津島社である。その右隣に足助神社がある。

足助神社の拝殿は明治35年の創建である。元弘の乱後醍醐天皇に味方して笠置山で奮戦し、後に鎌倉幕府によって京都六条河原で斬首された、飯盛山城主足助氏7代の足助二郎重範を祀っている。