半坪ビオトープの日記

飽富神社、拝殿


帰りがけに袖ケ浦市の飽富(あきとみ)神社に立ち寄った。近くには前方後円墳もあり、古くから開墾された地である。青銅製の鳥居が厳かな感じを与える。

鎮座地名は、飯富といい、古来は「飫富(オホ)」と呼称されており、神社名も飫富神社とか、おふの宮とも呼ばれてきた。延喜式式内社で、上総国五座のうち望陀郡一座飫富宮と記載されている。古墳時代の終わり頃、有力なる首長・飫富氏を中心とする集団が定住し、この広大な沼沢地を開墾したと考えられている。香取神宮の創建も紀元前643年、肥後国造の一族だった多氏が上総国に上陸し、開拓しながら常陸国に勢力を伸ばしたのが起源とされている。この多氏と飫富氏は同じと思われる。
拝殿正面には大晦日を控えて、大祓で使われる茅の輪が設けられていた。

現在の社殿は元禄4年(1691)に再建された権現造りで、拝殿は入母屋造、本殿は流造という。
社伝によると飽富神社の創建は、第二代綏靖天皇元年(紀元前581年)で、天皇の兄・神八井耳命によると伝えられている。元慶元年(877)祈雨勅願。天慶2年(939)平将門の乱で坂東の地が荒廃した時、朱雀天皇は勅使を送り神剣を奉納し兵乱鎮定を祈願した。7月24日の祭礼は、天延3年(975)上総国に疫病が流行ったとき、国司源頼光により執り行われたもので、文政11年(1828)以降は氏子8ヶ村が交代で神輿を担ぐ。

拝殿向拝の彫刻はきらびやかに彩色されて施されているが、兎の毛通しの鳳凰や虹梁上の龍をよく見ると、それほど精巧に彫られたものではないのがわかる。

拝殿入り口の格天井には様々な絵が描かれていたように見受けられるが、かすれてよく見えない。周りには、社号額や絵馬、写真などがたくさん奉納されている。

拝殿内の鏡は大きく、3間にわたる虹梁上の大きな蟇股も珍しく、精巧な彫刻が施されている。

社務所は御粥殿とも呼ばれ、この中で筒粥神事などが行われる。その右の朱色の建物は神楽殿であろうか、詳細はわからない。

境内には末社がたくさんあるが、小さな石祠もたくさん並べられている。

その右手には、太宰府天満宮淡島神社が祀られ、その右手に末社の合祀社殿が立つ。

末社は古来より75末社と称し、神域内にまとまって祀られている。1680年頃の市正伝記によると、本殿後:東之方御末社5社、本殿後:西之方御末社5社。本殿:東之方御末社20社。本殿:西之方御末社13社。亥之方(北北西)御末社9社。南方御末社3社。寅之方(東北東)御末社4社。卯之方(東)御末社2社。北方御末社10社。丑之方(北北東)御末社2社。申之方(西南西)御末社2社。合わせて75社75座とされる。

本殿左手(西)のこの合祀社殿には、秋口大権現、米倉大権現、玄畑大権現など16末社が祀られている。

これが拝殿を左手から見たところである。左に幣殿が続き、さらに本殿へと続いている。