半坪ビオトープの日記

中嶋神社


豊岡市の市街地の東端、豊岡駅の南東6kmほどの三宅に中嶋神社がある。広い境内の手前に朱色の大鳥居が南に向いて建っている。 

石畳が長く続く参道の先には広場があり、その先に石造の二の鳥居と社殿が見える。

広場の左手には籠堂が建つ。昔は拝殿としても利用されたという。

二の鳥居の右脇には「お菓子の神様 田道間守命の生誕地」と刻まれた石碑が立ち、池の橋を渡ると正面に拝殿が建つ。祭礼は4月第3日曜日に催され、菓子祭とも橘花祭とも呼ばれ、全国から製菓業者が集まり、業界の繁栄を祈願する。

中嶋神社主祭神として田道間守命(たじまもりのみこと)を祀り、天湯河棚神(あめのゆかわたなかみ)を配祀する。田道間守命は、天日槍命の5世の子孫で、『日本書紀』に記される垂仁天皇の命により常世の国から「非時香果(ときじくのかぐのみ=橘)」を持ち帰ったとされる。橘は菓子の最上級品とされたことから、菓子の神・菓祖として崇敬される。また現鎮座地に居を構えて当地を開墾し、人々に養蚕を奨励したと伝えられることから、養蚕の神ともされる。天湯河棚神は、中古に合祀された安美神社の祭神で、鳥取連(ととりのむらじ)の祖神である。

天延3年(975)に撰述されたという『国司文書』によれば、推古天皇15年(606)、田道間守命の7世の子孫である三宅吉士が、祖神として田道間守命を祀ったのにはじまるといい、「中嶋」という社名は、田道間守命が「非時香果(橘)」を持ち帰った時にはすでに垂仁天皇が亡くなっていたので、天皇の御陵に「非時香果」を献じて殉死したのを、景行天皇が憐れみ、田道間守命の墓を垂仁天皇陵そばの池の中嶋に造られたからという。しかし、『国司文書』は資料として疑義があるとされるので、この話は鵜呑みにできない。
神紋は「非時香果」にちなみ橘紋である。

本殿は、応永年間(1394-1428)の火災の後、正長元年(1428)に但馬領主・山名氏により再建されたもので、側面から見ると後方は短く、前方の軒先が流れ下っている流造(ながれづくり)で、室町時代の典型的な神社建築をよく示しているとして、国の重文に指定されている。

本殿は、二間社流造檜皮葺。神社建築では一間社流造や三間社流造が多く、中央に柱がある二間社は珍しく、重文では全国でわずか6棟とされる。屋根を支える建物上部の瓶の形の束柱(大瓶束)、あるいは肩に蓑を着たような束柱(蓑束)の上に渦巻き模様が彫刻された部材が付くなど、美麗な装飾が随所に見られる。階段下の両脇には木製の狛犬が安置されている。

社殿の右脇に建つ境内社は大神宮で、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)が祀られている。

境内には摂末社が多く祀られている。社殿の右手には若宮神社が祀られている。

若宮神社の右手には、聖(日尻)神社があり、さらに右手に大森神社がある。

社殿の左手には、秋葉神社が祀られている。

秋葉神社の左手には、稲荷神社がある。