半坪ビオトープの日記

鹿角の猿賀神社


鹿角の大湯地区には、有名な環状列石があるのでそこに向かう途中、猿賀野あるいは申ヶ平と呼ばれる辺りで、猿賀神社を見かけた。近くには軍森(いくさもり)、斥候坂(ものみざか)、鉄砲平、首塚蝦夷森、陣ヶ森など軍に関わる地名がたくさん残っている。

鹿角の猿賀神社の由緒は不詳だが、社伝によれば、元亀3年(1572)申ヶ野・五軒屋村にて創建したとされる。
翌日訪れることになる青森県平川市猿賀石林にも、弘前藩2代藩主・津軽信枚が再建し100石を献じたという、近県にも知られる猿賀神社がある。そこの社伝によれば、仁徳天皇55年(367)天皇の命を受けた上毛野田道将軍は東夷征討の途中で戦死したが、その霊は南部鹿角郡猿賀野に祀られた。欽明天皇28年(567)に大洪水があり、田道命の神霊が白馬にまたがり漂木を船として鹿角より流れ着いたという。その後、延暦年間(782~806)坂上田村麻呂蝦夷征討の際、苦戦する田村麻呂が田道の神霊に導かれて賊を平定するに至り、これに感謝して田道の霊を当地に遷座したのが始まりとされ、深砂宮として創建されたという。津軽為信津軽藩主が祈願所とし、明治初期に現社名になる前は、深砂大権現宮といったようだ。

鹿角の猿賀神社では、田道将軍の死後、将軍の亡き骸が埋められ墓が建てられ、神社も建てられたがその神社はいつしか「猿賀さま」と呼ばれるようになった。田道将軍は蝦夷に毒矢を射られて死ぬ前、「自分は死んでも大蛇になって蝦夷を滅ぼす」と言い残した。ある時、猿賀さまの墓を暴いたものがいたが、本当に大蛇がでてきてその者は大蛇に噛まれて死んだという。

祭神として、上毛野田道命(田道将軍)・猿田彦命・天宇都女命を祀る。本殿は、秋田県の重文に指定されている。猿賀神社の御神体は、本殿の地下にある巨石といわれ、名前に猿がつくにもかかわらず蛇を描いた絵が多く奉納されているという。猿賀神社のある場所は申ヶ野であり、鈴木旭氏はサル・タとは大蛇の日本古語という川崎真治氏の指摘から、猿賀神社や申ヶ野のサルは、サル・タのサルではないかとする。実際、平川市の猿賀神社も深砂大権現宮といったように、猿賀神社はもともと大蛇=龍神信仰と関わりが深いといえよう。

本殿の左には、「将軍田道祠」という大きな石祠があった。今でも、猿賀野や草木の人たちは、「しょうがんさまきた」と言えば、恐ろしいものが来たことだとして、泣く子や弱虫の子がいると、「しょうがんさまに連れて行かれる」と言って脅かしているそうだ。

社殿の裏手の右側にも「田道将軍戦没之地」の石碑が建つ。

鳥居の左に建つ白柱には、「田道将軍陣没の地」「仁徳天皇55年(367)上津野の蝦夷と戦ってこの地に陣没されたと伝えられている」と書かれている。

鳥居から少し左(北)の境内の外れに「忠魂碑」がある。この辺りは昔、蝦夷首塚だといわれ、大きな森となっている。