半坪ビオトープの日記

飽富神社、本殿


流造の本殿を左側(西)から見ると、かなり手の込んだ構造となっている。とりわけ大きな蕪懸魚が6個も施されているのは珍しい。飽富神社の主祭神は、開発の神として農耕神の倉稲魂(うがのみたま)命を祀り、大己貴命少彦名命を配する。

拝殿の真後ろにも末社の合祀社殿が並んでいる。左には16末社、右には疱瘡神など7末社が祀られている。

左の大きい方の16末社に祀られているのは、見通大明神、飯粥大明神、茅輪大明神、萱姫大明神などである。

その右手(東)にも大己貴大神、久保田八幡神社など8の末社が祀られている。

さらに右手、本殿の東側に離れて、徳川家康を祀る東照宮が建てられている。元和8年(1622)飯富村領主・天野佐左衛門雄得が勧請したもので、現在の流れ銅葺きの社殿は、天野雄得の子孫の民七郎が元治元年(1864)に再建したものである。
案内板によると、社中に源頼朝を祭神とした白幡権現を勧請し、また新田義貞を新田八幡として勧請し、それぞれ祀っているという。

東照宮の手前、拝殿の右手(東)にも合祀社殿が並んでいる。一番左手の朱色の合祀社殿には、子安大明神、石渡姥神社、白鳥大神宮、種産大明神、姫龍大明神など26社が祀られている。

26末社の合祀社殿の右には、小さな石祠が祀られ、さらに右手に立派な末社が祀られているが詳細はわからない。

このように拝殿は入母屋造、本殿は流造だが、全体として権現造となっている。その社殿の周りを、古来より75社もの末社が取り囲んでいるというのは見たことがない。

飽富神社の筒粥神事がよく知られていて、社務所の前に説明がある。「筒粥」とは、粥の中に葦の筒を投げ込み、筒の中に詰まった粥の量によってその年の農作物の豊凶を占うという、小正月の年占行事である。社務所(御粥殿)の中で葦を切りそろえ、末社の数と同数の75本を、5本・7本・9本・24本・30本の束にして、そのうち9本の束を占いの本くじとする。お粥の鍋に神職が5束の葦を投げ込み、本くじの葦束を引き上げ、中の分量で順に、大麦・小麦・麻衣・早稲・中稲・晩稲・稗・粟・大豆の作柄を判定していく。その結果表は木版で刷って氏子に配られ、一年の作付けの目安とされる。この筒粥神事は、禊が慣行され、旧家の役割が受け継がれるなど、年占いの古い形を残しているとして、県の指定無形民俗文化財となっている。
社務所の左手には出雲大社遥拝所がある。出雲大社との関連はわからないが、ほぼ同緯度に鎮座している。つまり、出雲大社の真東にあたる。飽富神社が南を向いているので、参道を上がってすぐ左を向くことになる。

境内入り口近くに天神七福神の紹介がある。今から約250年前の明和5年(1768)に飽富神社神主深河常陸介喬栄が描いたものである。今日の七福神像は大黒と恵比寿(戎)以外はインドや中国の神や高僧にて構成されているが、このように日本の神のみの七福神像はたいへん珍しく、飽富神社以外では兵庫県の西の宮神社にあるのみといわれる。
中央の女神=倉稲魂命、中央右側の女神=市杵島姫命、中央左側の神=少彦名命、手に袋入りの太刀を持った神=大己貴命、手に釣り具を持った神=事代主命、手に榊を持った神=猿田彦命、手に幣を持った神=天児屋命。 
これで年末に出かけた房総半島の養老渓谷巡りを終えた。