半坪ビオトープの日記

津軽信政廟所


本殿後背(西)には真っ直ぐな杉木立の先に、およそ200m隔てて、宝永7年(1710)に弘前城で卒去した4代藩主の津軽信政の廟所がある。

苔むした参道を進むと、右手に「お茶の水」と表示された檜造の湧水小屋が建っている。岩木山の冷たい伏流水が、小屋の中のパイプからちょろちょろと湧き出ている。

さらに鬱蒼とした参道を進むと、右手に「馬場跡」の表示がある。明治初期までこの場所には、幅約150m、距離約150m、一周約300mの海の砂を敷き詰めた馬場があったという。

杉林が鬱蒼と茂り、霊験あらたかと感じさせる雰囲気の中に、ひっそりと廟所が祀られている。

吉川神道創始者である吉川惟足の門下生であった信政は、吉川神道を信奉し修めた第一人者であり、古来ここにあった春日四神を尊信し、生前社殿を造営しようとしたが果たせなかったため、自らの葬地をこの高岡の地に定めていた。
廟所門は、切妻造銅板葺きの1間腕木門で、文化12年(1815)9代藩主津軽寧親により造替された。
ここで吉川神道までの神道の歴史を、きわめて大雑把に顧みておこう。狩猟採集時代は、日月信仰、海・山・川・岩・木などの自然信仰で、目印を神の依代として祀っていた。農業で定着すると農耕祭祀が取り入れられ、併せて農業ほかの生業産業の産土(うぶすな)守護神信仰や、氏族の祖神を祀る氏神信仰などと多様化し体系化していく。ここまでは出雲王朝を代表とする国津神系あるいは原始神道古神道といえよう。その後、大和朝廷による天孫降臨天津神系の信仰が被さり、さらに儒教や仏教伝来とともに始まる神仏習合あるいは神儒習合時代となっていく。最澄天台宗空海真言宗が興り、聖武天皇国分寺国分尼寺を全国に建設し、諸国の神社に神宮寺が置かれ、神仏習合の先駆として八幡神が登場する。真言宗両部神道が絡み、天台宗山王神道が絡み、さらに熊野を代表とする山伏修験道神仏習合を深めていく。両部神道山王神道は、仏を本地、神をその仏が姿を変えて現れたという本地垂迹説だが、権現もその流れを汲む。鎌倉時代には本地垂迹説に対抗して神主仏従説の伊勢神道度会神道が現れたが南朝と結びついていたため衰退した。室町時代末期になって伊勢神道より明確な反本地垂迹説の吉田神道が登場する。その教義は、「仏法は万法の花実たり、儒教は万法の枝葉たり、神道は万法の根本たり」とする三教枝葉花実根本説を基本にして、江戸時代にかけて発展した。徳川幕府の御用学者で朱子学者の林羅山は、吉田神道を批判して神儒一致の理当心地神道を唱えた。一方、幕府の承認のもとに神道の本家的存在となっていた吉田神道から、儒教と武士道を加味した神儒一致を説く吉川惟足(これたる)が吉川神道を立ち上げる。紀伊徳川頼宣会津保科正之弘前藩水戸藩でも藩主が吉川神道を学び、後に水戸学として大成する。また、賀茂真淵本居宣長平田篤胤などの国学者から、仏教や儒教の伝来する以前の古神道に立ち返ろうとする復古神道が提唱され、尊王攘夷論や王政復古、明治維新後の国家神道へと繋がっていく。

弘前藩4代藩主の津軽信政は、岩木川の改修、津軽半島北部の新田開発、今では日本三大美林の一つとなったヒバの植林などを行い、名君として讃えられている。
廟所拝殿は、5代藩主信寿による正徳元年(1711)の信政の葬儀に際して建立された。桁行3間梁間2間の切妻造銅板葺きで、背面1間が突出する。その奥に墓石が2基前後に並び、後ろのものを本墓、前のものを拝墓とする。墓石には「宝永七庚虎年」の刻銘があるとのことだが、廟所門の中には入れず、なおも墓石は覆屋で囲まれていてまったく見ることはできない。
廟所門、廟所拝殿、墓2基は、高照神社の社殿と一緒に、平成18年に国の重文に指定された。

帰りがけに高照神社の境内で、シダレザクラの大木を見かけた。江戸時代中期、大星神社(青森市)再建に際して、4代藩主信政がシダレザクラを植えたことが言い伝えられているので、その際、高照神社にも植えられたと考えられている。推定樹齢300年、樹高16m、幹周2.76mで、弘前市の天然記念物に指定されている。

同じく高照神社の拝殿の右手前に、神楽殿跡があった。礎石しか残っていないが、規模は桁行5間5尺、梁間3間4尺とされる。古絵図により正徳4年(1714)頃にはすでにこの場所に神楽殿があり、大正7年(1918)頃まで建物があったといわれている。

三の鳥居のすぐ左に宝物殿が建っている。その宝物殿には、津軽為信豊臣秀吉から与えられたといわれる鎌倉時代の銘ある「友成の太刀」、「真守の太刀」(ともに国の重文)、県の重宝に指定されている信政着用具足、高照神社刀剣類(11口)、奉納絵馬(54枚)などが収蔵・展示されている。