半坪ビオトープの日記

国造神社


阿蘇神社の北約5kmの一宮町手野の宮川の上流に、国造神社がある。阿蘇神社の北方に鎮座するため、北宮と称される。宮川に架けられた宮の橋を渡ると石段があり、その上に社殿が見える。

宮の橋の右手には、小さな水神社がある。国造神社の祭神・速瓶玉命、妃神・雨宮媛命が自ら祀った神とされ、神功皇后三韓征伐の際、雨宮神従軍して武功あるは水神の加護によるとして、応神天皇の御代に国造神社の境内に水神祠を修造して祀ったと伝わる。

拝殿手前の明神鳥居には国造神社の扁額が掲げられている。国造の読みは、「こくぞう」とも、「くにのみやつこ」あるいは「くにつくり」とも呼ばれる。境内隣の畑の中に6世紀ごろの築造と考えられる上御倉古墳・下御倉古墳があり、ともに横穴式石室を持つ円墳で、国造夫妻の墳墓とする説もある。

延喜式神名帳に記される肥後国四座のうちの一つで、肥後国誌によれば、崇神天皇の代に速瓶玉命(はやみかたまのみこと)が肥後国造に任命され、景行天皇18年に国造神社を修造し祭典を整えたとある。拝殿は桁行3間、梁間3間の入母屋造銅板葺であり、本殿とともに阿蘇市有形文化財に指定されている。

父親である阿蘇神社の主祭神健磐龍命とともに阿蘇の地を開拓し、農耕・植林などを指導したとされる速瓶玉命主祭神とし、速瓶玉命の妃神・雨宮媛命、速瓶玉命の第二子・高橋神、速瓶玉命第三子・火宮神(ひみみやのかみ)を合わせて4柱の神を祀る。雨宮媛命は、熊本県宇城市三角町にある郡浦神社肥後国三宮)の主祭神である蒲智比竎命(かまちひめのみこと)のことで、雨宮明神とも呼ばれる海神の女神である。火宮神も火宮明神とも呼ばれ、雨宮媛と同じく郡浦神社の祭神でもあり、ともに晴れを祈り雨を祈るに霊験あらたかとされる。

本殿は桁行4間、梁間2間の入母屋造銅板葺で、拝殿とともに寛文12年(1672)、肥後熊本藩第3代藩主細川綱利によって造営され、その旨の棟札が本殿より発見されている。

境内には「白蛇の桧」とよばれる檜が祀られている。この檜には白蛇の神霊が宿っていて、その姿を見た者は運が開けるとの伝承がある。

社殿の脇に、全国的にも珍しい鯰宮が祀られている。健磐龍命阿蘇火口湖の「立野火口瀬」を蹴破り開拓された時に、大鯰が出現し阿蘇谷の半分にわたり横たわっていたので、命が鯰に向かい「お前が居ては人々が住めない」というと、鯰は深く頭を垂れて去って行ったという。命は湖の精霊であった大鯰の霊を祀るとともに、鯰を捕獲して食べることを禁じたという。北宮明神とも呼ばれる。

境内にはかつて「手野の杉」という杉の巨木があり、江戸時代まで境内には陰陽2株の杉とも男杉女杉とも呼ばれる2本の大杉が生育していたが、男杉は文政年間(1818~30)に落雷による火災のために伐採された。

女杉は「手野の杉」として、大正13年(1924)に当時の国の天然記念物に指定されていたが、平成3年の台風により地上11m付近で折損したため指定が解除され、保存処理されている。当神社の主祭神速瓶玉命お手植えの神杉と伝えられ、推定樹齢は1000年とも2000年ともいわれた。昭和45年の測定では、高さ約48m、幹囲約11mであった。

男杉の根元の切り株も女杉の近くに、屋根で保護され保存されている。

手野の杉の近くには、朴の木の巨木もある。推定樹齢350年、樹高34m、幹囲4.7mあり、阿蘇市の天然記念物に指定されている。

神社入り口にある資料館には、水神木と銘打たれた大杉の切り株が展示されている。樹齢800年余りというこの杉も、平成3年の台風で倒木したものという。
これで熊本城から始めた南九州一周の旅は終わった。キリシタンの天草、西郷隆盛史跡の鹿児島、天孫降臨神話の宮崎など興味のある史跡が多かったが、明治初期の神仏分離令によってほとんどのお寺が廃寺とされ、神社ばかり残っていることが奇異に感じた旅でもあった。