半坪ビオトープの日記

霊山寺


鳴門市にある霊山寺(りょうぜんじ)は、四国にある空海ゆかりの四国八十八箇所霊場の第一番札所として有名で、「発願の寺」として「一番さん」の名で親しまれている。山門の手前に発心の門がある。四国の霊場は人生に例えて、阿波国霊場は発心の道場、土佐国霊場は修行の道場、伊予国霊場は菩薩の道場、讃岐国霊場は涅槃の道場といわれている。

高野山真言宗の寺院であり、山号は竺和山(じくわさん)一乗院と号する。山門(仁王門)は、重厚な入母屋造二層の楼門であり、明治24年に焼失後、再建されている。

霊山寺は、四国巡礼(四国巡拝)いわゆる四国遍路の出発点であり、お遍路姿のマネキンが山門前に立っている。衣装を揃えなければ巡礼できないわけではないが、一般的なお遍路セットを用意するには1万円ほどかかるらしい。

山門をくぐると左手には多宝塔が建っている。応永年間(1394-1428)の建造で、中には五智如来像が安置されている。

右手には鯉が泳ぐ放生池があり、その先には大師堂が建っている。霊山寺の寺伝によれば、聖武天皇(在位724~49)の勅願により行基菩薩が開創した。弘仁六年(815)弘法大師大日如来胎蔵界曼荼羅道場を求め、四国の東北から右回りに巡教した際、この地で衆生の88の煩悩を浄化し、衆生と自らの厄難をはらって心身の救済ができる霊場を開こうと37日間の修法をした。その時、仏法を説く一老師をたくさんの僧侶が取り囲み、熱心に耳を傾けている霊感を得た。大師は、その光景が天竺の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じ取り、インドの霊山を和国に移す意味で「竺和山霊山寺」と名付け、念持仏の釈迦如来誕生仏を納め霊場開創祈願をしたという。

本堂は拝殿に奥殿が増築された構造で、拝殿右隅上には地蔵菩薩三尊蔵が、左隅には釈迦像、その上には賓頭盧尊者と修行大師がいる。釈迦誕生仏像が本尊の前に納められたことから、霊山寺四国八十八ヶ所の第一番札所と定めたという。しかしそれは史実ではない。四国は奈良時代から山岳信仰(後の修験道)の修行地で、空海も渡唐前には私度僧として四国で修行したことはあるが、唐から帰国後は都で密教の布教に努めていた。江戸時代になって霊場巡礼が盛んになると、四国を修行した僧の一人、真念が「四国遍路道指南」を1687年に出版した。それが現存最古の書物とされ、当時大坂から四国入りする鳴門ルートがあったので港に最も近い霊山寺が一番札所となったと推定されている。

空海作の伝承を有する秘仏の誕生仏は、白鳳時代の作で、身の丈約14cmの小さな銅造である。室町時代には三好氏の庇護を受け、阿波三大坊の一つとされ、荘厳な伽藍を誇った。しかし天正10年(1582)長宗我部元親の兵火により堂塔は全焼した。その後、阿波藩主・蜂須賀光隆によって再興されたが、明治24年(1891)の出火で本堂と多宝塔以外の建物を失った。

拝殿内には曼荼羅図も掲げられていた。曼荼羅図には、金剛界曼荼羅胎蔵界曼荼羅があるが、空海が四国で胎蔵界曼荼羅道場を探し求めたという、その胎蔵界曼荼羅図である。

拝殿中央天井には龍が描かれている。

本堂に向かって左側に十三仏堂が建っている。といっても最初の不動明王が祀られている堂宇だけが、立派な建物である。

そこには憤怒の形相の大きな不動明王坐像が祀られている。

十三仏の残りの十二仏は石像の立ち姿で一列に並んでいる。十三仏とは、初七日から33回忌の死者の追善供養のために割り当てられた仏である。