半坪ビオトープの日記

相馬中村神社


相馬市の市街地中村は、江戸時代に相馬氏6万石の城下町として栄え、陸前浜街道の中村宿として賑わった。市街地の西側丘陵に、中村城(馬陵城)跡があり、その西一角の妙見郭には、相馬三妙見の一つで「お妙見さま」と呼ばれ親しまれている相馬中村神社がある。社伝によれば、承平年間(931~37)相馬家の先祖平将門下総国に妙見社を創建して戦勝を祈願。併せて国家安泰、国民諸業の繁栄を祈念したことにはじまり、時代を経て慶長16年(1611)相馬中村藩初代藩主・相馬利胤が相馬中村に城を移した時、妙見社も中村城内に移したという。参道の二の鳥居の右側には御神木の親子杉が立っている。

御神木の親子杉は、親杉の樹高が50m、子杉の樹高が56m、樹齢は約600年といわれ、相馬市の天然記念物に指定されている。

参道の左側には神楽殿が建っている。

参道の突き当たりには北野天満宮が建っている。その右手には八坂神社と諏訪神社が並んでいる。

北野天満宮の前で参道は直角に右に曲がり、三の鳥居が建っている。

三の鳥居の先には急な石段があり、その先に拝殿を見上げることができる。

現在の相馬中村神社の社殿は、寛永20年(1643)に相馬中村藩2代藩主・相馬義胤により建立されたもので、国の重文に指定されている。総白木造で杮葺、一間社流造の拝殿・幣殿・本殿からなる権現造の複合社殿は、彩色や飾り金具が施されている。

本殿及び拝殿正面の蟇股には、珍しく馬の彫刻が施され、拝殿正面の馬の絵馬も大きい。現在の祭神は、天之御中主神であるが、神仏習合時代には北辰妙見菩薩を祭神としていた。北辰とは北極星を指し、北方鎮護を司る星の信仰がもととなっている。

社殿の右側に絵馬殿があり、様々な絵馬がたくさん奉納されている。その左手には、塩釜神社松尾神社の社殿が建ち、松尾神社の左手には小さな足尾神社の社がある。

本殿は本来木部全体に漆塗りが施されていたが、外観は白木造りの様相を呈している。本殿は現在修復中であるが、内部に施された漆塗り、彩色はよく残り、当時の装飾美を今に伝えているといわれる。

社殿の左側奥には、国王舎(星之宮)が建っている。祭神として平将門を祀っている。手前左手の建物は御水神舎である。

妙見信仰は相馬武士の精神的支柱であったことから、相馬馬追の際には総大将はこの相馬中村神社からお繰出し(出陣)する。神社の東には馬場もあり、境内にはかわいいポニーも飼われていた。

境内入り口の手前にも、立派な白馬が飼われていた。国の重要無形民俗文化財に指定されている相馬野馬追は、相馬氏の遠祖・平将門が領内の下総国相馬郡小金原に野生馬を放し、敵兵に見たてて軍事訓練をしたことに始まるとされる。鎌倉幕府成立後はこうした軍事訓練は一切取り締まられたが、相馬野馬追はあくまで神事として脈々として続けられた。戊辰戦争で中村藩が明治政府に敗北して消滅した後、旧中村藩内の野馬は全て狩り獲られ、相馬野馬追も消滅した。その後、相馬大田神社が中心となって再興を図り、内務省の許可を得て復活した。500余騎を集める行事は、国内唯一とされる。