半坪ビオトープの日記

白山神社


釈迦堂の前の参道をさらに進むと、朱色がまぶしい大きな両部鳥居が立っている。ここから先は、白山神社の境内となる。

参道から左に上がる脇道は、木の根がむき出しとなって階段のようになっていた。

参道の突き当たりには、茅葺の大きな能舞台が現れる。ここには「吾妻鏡」の「寺塔已下注文」に記された二階大堂があったと考えられている。源頼朝奥州合戦で亡くなった全ての戦没者を弔うために鎌倉に永福寺を建てたが、その理由は平泉中尊寺にある二階大堂(大長寿院)を見て感激し、それを模して建立したとされる。二階大堂は高さ15mの阿弥陀堂で、本尊として三丈(9m)の阿弥陀如来が鎮座し、脇侍として丈六(2.8m)の仏像が立ち並んでいたという。

現在の能舞台は、嘉永6年(1853)に仙台藩13代藩主伊達慶邦によって再建されたもので、舞台の鏡板は昭和22年(1947)に松野奏風によって描かれた松の絵である。舞台および楽屋は東西に長い入母屋造茅葺で、西半を舞台、東半を楽屋とする。北面につく橋掛は両下造鉄板葺の建物で北東に伸び、社殿側にある鏡の間に接続する。鏡の間の西面は入母屋造だが、東面は寄棟造である。正統的かつ本格的な構成の近世能舞台遺構として、国の重文に指定されている。毎年8月14日には薪能が催され、幽玄の世界を楽しむことができる。

能楽堂の奥に白山神社の拝殿が建っている。拝殿は、3間社流造銅板葺きで、その軒唐破風向拝の柱には茅の輪が括り付けられている。社伝によると、嘉祥5年(850)中尊寺の開祖である慈覚大師が加賀の白山をこの地に勧請し、自らは十一面観音を作って中尊寺の鎮守白山権現と号された。

配仏として橋爪五郎季衡の持仏で運慶作の正観音と源義経の持仏で毘沙門天が安置されていたが、嘉永2年(1849)の火災で焼失したという。

拝殿の裏には、幣殿および本殿が続いて建っている。本殿は、1間社流造銅板葺きである。現在の祭神は、伊奘諾尊・伊弉冉尊となっているが、江戸時代には菊理媛神とされていたという。菊理媛神は、黄泉平坂で追いつかれ口論となった伊奘諾尊・伊弉冉尊を仲直りさせた縁結びの神とされ、また、加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比竎神と同一視されている。

最奥の白山神社から戻ってくると、釈迦堂の先、金色堂の向かいに弁財天堂が建っている。間口3間、奥行2間の寄棟造茅葺の建物で、正徳6年(1716)建立の棟札が残されている。本尊の弁財天十五童子像は、宝永2年(1705)に仙台藩伊達綱村正室・仙姫により寄進された。「金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図」は、仙姫寄進の厨子に納められ堂内に奉安されていた。