半坪ビオトープの日記

経蔵、旧覆堂


金色堂の裏手に、経蔵が建っている。間口3間、屋根は宝形、かつては茅葺だったが昭和25年に銅板葺きに改められた。現在の平屋建ての建物は、平安時代の2階瓦葺の古材を使った鎌倉時代の再建と考えられている。ここには日本最古の棟札が伝えられ、保安3年(1122)銘のもので、藤原清衡とその妻平氏が施主であることが解明された。経蔵と棟札が国の重文に指定されている。

内部には国宝の螺鈿八角須弥壇が置かれ、壇上には獅子に乗った文殊菩薩像と従者4体からなる文殊五尊像(重文)を安置していたが、現在は讃衡蔵に安置・収蔵されている。同じく国宝の紺紙金字一切経もここに納められていたが、現在は讃衡蔵に移された。

経蔵から旧覆堂へ至る道の左手の高台に、天満宮が鎮座している。この天満宮菅原道真の第14世孫、菅原為視が勅命により奥州平泉へ下向逗留の時、出生した乙王丸に京都北野天満宮より勧請して授けた天満大自在天神の御真影と観世音菩薩を祀っている。また、この霊地は昔、陸奥守頼清が衣の関を守護し、世の平安を祈願するために鎮守府の弓矢を納めて天神地祇を祀り、関の神社を造営した地でもあるという。

経蔵の先に、松尾芭蕉銅像が立っている。源義経が平泉に自害し、奥州藤原氏が滅亡して500年目にあたる元禄2年(1689)芭蕉は門人の曽良と「奥の細道」の旅に出る。平泉を訪れた芭蕉は、まず義経の居館があったと伝えられる高館の丘陵に登り、束稲山の麓の北上川と衣川を眺める。
夏草や 兵どもが 夢の跡  芭蕉
続いて中尊寺を訪れた芭蕉は、金色堂を参詣する。鎌倉北条氏によって建てられたという覆堂の中で、朽ち果てた金色堂はかろうじて光を投げかける。
五月雨の 降残してや 光堂  芭蕉

芭蕉像の先には、旧覆堂が建っている。金色堂は建立当初は屋外に立っていたが、数十年後には建物を風から守る「霧除け」のような施設が造られ、やがて正応元年(1288)鎌倉将軍惟康親王の命令で、金色堂を外側からすっぽり包む形で覆堂が建設された。様式的に室町時代の建築と考えられている木像の旧覆堂(重文)は、金色堂の北西のこの地に移築・保存されている。5間四方の堂で、古くは「鞘堂」と呼ばれていた。

現在、堂内には中央に藤原秀衡らの800年御遠忌の塔婆以外何も置かれていないが、壁にはいくつか絵が掲げられている。右の絵は、藤原秀衡源義経の対面の図である。

旧覆堂の先、左手に西谷坊がある。

西谷坊では、元三大師が安置した大日如来を本尊としている。

西谷坊の先で参道に戻ると、左側に釈迦堂が建っている。釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依した藤原清衡は、長治2年(1105)より中尊寺の造立に着手し、まず関山に一基の塔を建て、境内中央に釈迦・多宝如来の並座する多宝寺を建立し、続いて百四体の釈迦如来を安置した釈迦堂を建立したとされる。中尊寺では建武4年(1337)に大きな火災があり、金色堂を残してほぼ全焼してしまった。この釈迦堂は、享保4年(1719)に創建されたものである。