半坪ビオトープの日記

毛越寺、本堂


中尊寺の南約3kmに天台宗毛越寺がある。境内は、毛越寺境内附鎮守社跡として国の特別史跡となり、庭園は特別名勝に指定されている。入口の山門は、大正10年(1921)に伊達一関藩主田村氏居館の正門を移したものである。

山門を潜ってすぐ左側に宝物館があり、正面に本堂、右手の杉木立越しに浄土庭園が広がる。宝物館には、毛越寺一山に伝わる平安期の仏像、書籍、工芸品、発掘遺品、延年の舞の用具などを展示している。

宝物館の先に、芭蕉の句碑「夏草や 兵どもが 夢の跡」が3基ある。文治5年(1189)義経が泰衡に急襲され自害した高館の地を、元禄2年(1689)に訪れた芭蕉が悲運の義経主従を偲んで詠んだ句である。左にある1基目は英語のもので、「武士道」の著書で有名な盛岡出身の新渡戸稲造が英訳したものである。

本堂寄りに少し進んだ右側に2基目と3基目が並んで建っている。右手の句碑は、地元平泉の俳人素鳥らが建てたもの。左手が芭蕉真筆といわれるもので、芭蕉の甥である僧侶・碓花坊也寥が建てたといわれている。

寺伝によれば、毛越寺は嘉祥3年(850)慈覚大師円仁が開山し、その後大火で焼失して荒廃したが、藤原氏2代基衡から3代秀衡の時代に壮大な伽藍が再興された寺院で、円隆寺や嘉祥寺を含む一山の総称である。「吾妻鏡」によれば、最盛時には堂塔40僧坊500を数え、中尊寺を凌ぐ規模と華麗さを誇り、その荘厳さは「吾朝無双」と評された。奥州藤原氏滅亡後、嘉禄2年(1226)に火災に遭い、戦国時代の天正元年(1573)には兵火に遭って、長年の間土壇と礎石を残すだけとなり、江戸時代には水田と化した。明治後半にようやく本堂や庫裡が建てられた。
現在の本堂は、平成元年に平安様式に則って再建された。毛越寺一山の根本道場であって坐禅ができ、毛越寺の祭事や法要などの行事が行われる。
慈覚大師円仁は、毛越寺のほかにも中尊寺や松島の瑞巌寺、山寺の立石寺も建立したと伝えられ、今ではこの四つを結ぶ《仏教のコスモロジー》を「四寺廻廊」と名付けて東北巡礼の旅が推奨され、芭蕉奥の細道も「四寺廻廊」を巡る旅だったともいわれる。

本尊は薬師如来で、平安時代の作である。脇侍は日光・月光両菩薩で、その周りには本尊守護の四天王が安置されている。

本堂の左に建つ舞台では、法会のあとに催される「延年の舞」が奉納される。延年の舞は、開山以来連綿と行われてきた常行三昧供の修法とあわせて国の重要無形民俗文化財に指定されている。毛越寺には「田楽踊」「路舞」「祝詞」「老女」「若女禰宜」など10数番が伝承されている。

本堂の手前右手は、浄土庭園入口の南大門跡である。「吾妻鏡」の「寺塔已下注文」に記された二階惣門にあたり、桁行3間、梁間2間の平面形式で、現在でも12個の礎石が整然と並んでいる。発掘された築垣基底部の幅は10尺以上、犬走りの幅は8尺以上、溝の幅は6尺もある。三者を備える大規模な遺構は、飛鳥寺四天王寺薬師寺などの発掘例と比較しても破格の規模で、毛越寺の特異性があるとされる。