半坪ビオトープの日記

えさし藤原の郷、正法寺

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えさし藤原の郷

翌日は栗駒山に登る予定だったが、あいにく雨なので岩手県奥州市にある、えさし藤原の郷を見物した。奥州藤原氏の歴史を顕彰しながら、古代から中世にかけての東北の歴史文化を体感できる施設。NHK大河ドラマ炎立つ」のセットを利用し、1993年に整備・開園された。奥州藤原氏の祖先である藤原経清と、平泉を創設した奥州藤原氏初代・清衡が居住した豊田館跡付近に造られた。平安建築群が再現されたテーマパークとしては日本唯一であり、多くのドラマ撮影の舞台となっている。園内に入ると8〜9世紀ごろの政庁が想定されて造られている。

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平安時代貴族の娯楽道具
政庁の北側は律令時代(12世紀)の政庁の再現である。朱塗や太い円柱は格式の高さを示している。所々に武具や娯楽道具などが展示されている。平安時代貴族の娯楽には、詩歌・管弦をはじめ、囲碁・双六・貝合わせ・蹴鞠などがあった。囲碁と双六は6〜7世紀に中国から伝来した。

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源頼義陸奥守就任の場面
政庁の一角に、源頼義陸奥守就任の場面が復元されている。永承六年(1051)、前九年の役が勃発し、陸奥守・藤原登任が敗れて更迭された後任として、頼義が陸奥の政庁だった多賀城に着任した。その場に嫡男・義家や藤原景季も従っていた。

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源義経静御前
奥州藤原氏は前九年・後三年の役の後に藤原清衡が奥州の支配を委ねられたのに始まる。初代清衡は平泉に中尊寺を建立した。秀衡はその三代目に当たり、源義経を養育したことでも知られる。治承4年(1180)に源頼朝が平家打倒の兵を挙げると、義経は秀衡が引き止めるも兄の元へ向かった。平家を滅亡に追い込んだ頼朝は、対立する義経を追い詰めるが、秀衡は逃亡してきた義経を匿う。頼朝の無理難題を突きつけられた秀衡は反逆者に仕立てられたまま亡くなる。後継者の次男・泰衡は頼朝の圧力に屈し義経を自害に追い込んだが、頼朝は許可なく義経を殺害したとして奥州征伐を決行し、奥州藤原氏は滅亡した。

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義経自害の持仏堂
文治五年(1189)閏4月30日、泰衡は500騎の兵で10数騎の義経主従を衣川館に襲った。義経は持仏堂に籠り、正妻の郷御前と4歳の女子を殺害後、自害した。享年31だった。

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見返り坂から見下ろす政庁
政庁から東南方向に高台があり、経清館と清衡館などの建物群がある。そこへ上がる途中の見返り坂から政庁を見下ろすと、復元された政庁の建物が整然と並んでいる。

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藤原経清
高台の上にある経清館は、藤原経清が江刺に移り住んだ11世紀半ば頃の地方豪族の一般的な館を模している。経清は、前九年の役の始まりでは安倍氏側に属していたが、源頼義陸奥守に任じられた際、大赦により許された安倍頼時が朝廷に帰服すると経清も頼義に従った。天喜4年(1156安倍氏が再び蜂起し合戦に至ると、経清は頼義に従い参戦するが、同じく安倍頼時の娘を妻にしていた平永衡が謀反の疑いで殺されると、安倍氏に合流した。頼義が清原氏の協力で安倍氏を滅ぼして前九年の役終結した後、経清は頼義の面前で錆刀で鋸挽きにより斬首された。

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奥州藤原初代清衡
隣の清衡館は、経清の子・奥州藤原初代清衡が江刺に居住した寝殿造初期の館である。7歳で父清衡と共に処刑されるところ、母が敵将・清原武則の長男・武貞に再嫁したため養子となり難を逃れた。清原家の相続争いである後三年の役は私闘とされたが、生き残った清衡は奥州藤原氏の祖となった。その後、平泉に居を移し、奥州藤原氏4代100年の栄華の基礎を築いた。

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平泉の無量光院
奥州藤原氏の初代清衡が平泉に中尊寺を、二代基衡が毛越寺を造営し、三代秀衡が建立したのが無量光院である。平泉の中心部に位置し、近くに奥州藤原氏の政庁・平泉館があった。度重なる火災で焼失し、今では土塁や礎石が残るだけである。この藤原の郷に、遠景として縮小再現されている。

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伽羅御所の泰衡・秀衡・義経
平泉にある無量光院の東門に接して建てられた伽羅御所は、奥州藤原氏・秀衡の居館であり、以後4代泰衡の代まで使用された。この藤原の郷に、推定復元され、平安時代寝殿造の様式を再現した日本唯一の建造物となっている。秀衡は死の直前、源頼朝との対立に備え、国衡・泰衡兄弟の融和を説き、義経を大将軍として一致結束するよう遺言して没した。ここでは伽羅御所での場面を再現している。左から泰衡・秀衡・義経

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曹洞宗正法寺
奥州市水沢黒石町に、曹洞宗大梅拈華山正法寺がある。かつては大本山永平寺總持寺に次ぐ曹洞宗の第三本山と呼ばれていた。「奥の正法寺」の名で広く親しまれ、日本一の茅葺き屋根建築として有名な法堂や庫裡、惣門、鐘楼堂は国の重要文化財である。

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正法寺の惣門
惣門は、寛政11年(1799)の正法寺炎上の時も焼け残り、蛇紋岩の石段とともに古刹の風格を感じさせる。切妻造り、とち葺の四脚門で、寛文5年(1665)仙台大工棟梁新田作兵衛による建築。寺院の四脚門としては岩手県最古の遺構で、建築史上貴重とされる。

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正法寺の法堂(本堂)
正法寺は現在、73ヶ寺の末寺を有し、その格式にふさわしい寺宝や伽藍が数多く保存されている。法堂(本堂)は入母屋造で、日本最大級の茅葺屋根を備え、桁行21間半(約29.6m)、梁間12間半(約21m)、棟高(屋根の高さ)約26m、建築面積約769平米(約233坪)。棟には伊達家の家紋、竹に雀、三引両、九曜がついている。法堂の左手には僧堂(坐禅堂)が建ち、右手奥には開山堂が建っている。

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正法寺の法堂

法堂とは、住職が仏祖に代わって説法する道場のことで、堂内中央の須弥壇には秘仏本尊の如意輪観世音菩薩を祀り、朝晩の読経、年間の様々な法要もここで行われる。如意輪観世音菩薩は、寄木造の像高48 cm。13世紀後半から14世紀初頭の制作で、寺伝では「春日作」という。西序室の中に安置される釈迦三尊像は、寄木造で、像高は釈迦如来53 cm、文殊菩薩41 cm、普賢菩薩40.8 cm。明徳3年(1392)以降、10年間に亘って正法寺関係の仏像を造り続けた仏師・立増の作と伝わる。

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庫裡と鐘楼堂

法堂の向かって右手前(南)に建つ庫裡は、寄棟造の約528平米(約160坪)の大建築で、応接間、尚事寮(事務を司る)、旧典座寮(食事を司る)など様々な機能を持つ建物である。土間と典座寮の間には韋駄尊天が祀られている。韋駄尊天は僧・伽藍及び斎供(食物)の守護神とされ、寺院の玄関口に祀られる。右に続く鐘楼堂は、江戸末期の建築で、現在も定刻に時を知らせる梵鐘を撞いている。