半坪ビオトープの日記

浄土庭園、開山堂


目の前に広がる浄土庭園は、東西約180m、南北約90mの大泉が池を中心に、築山・州浜・遣水・立石などいくつもの佳景が点在する。池の中央には東西約70m、南北約30mの勾玉状の中島があり、池の周辺や中島には玉石が敷かれている。昔は南大門前から中島南までの反橋、金堂前から中島北までの斜橋が架かっていた。

平安時代に書かれた日本最古の庭園書「作庭記」に基づき造られた浄土庭園で、作庭当初の姿を残している。北に、塔山という小山を背景にしている。塔山の右手前の木立は経楼跡である。経楼は経文を納める建物で、金堂西廊の南端、鐘楼と対称の位置にある。

庭園を時計回りに歩き出すとまもなく、大泉が池の南西岸に築山がある。池水面より4mほどの高さまで大小各種の石を立てて、岩山の姿を造り出している。深い淵に臨む断崖の景観を思わせ、「作庭記」に記されている「枯山水の様」の実例と考えられている。

開山堂の手前の池に面して、約30アールのあやめ園がある。6月下旬から7月上旬の最盛期には、揚羽や初鏡、初光など300種、3万株の花菖蒲が咲き誇る。あやめまつり期間中は、延年の舞、茶会、写生大会などが行われる。

あやめ園の左奥には、毛越寺を開いた慈覚大師円仁を祀る校倉風の開山堂が建っている。この開山堂は毛越寺の宝物、資料を収蔵する霊宝館として大正12年(1923)に建立されたが、宝物館が山門近くに新たに建てられたため宝物等は昭和53年(1978)に移した後、霊宝館を改造して開山堂とされた。

堂内には、中央の慈覚大師像のほか、右には両界大日如来像、左には藤原三代(清衡、基衡、秀衡)の画像を安置している。
開山にまつわる白鹿伝説がある。寺伝によると、嘉祥3年(850)慈覚大師が東北巡遊の折、この地にさしかかると一面霧に覆われ一歩も先に進めなくなった。ふと足元を見ると地面に白鹿の毛が点々と落ちているので、大師は不思議に思いその毛をたどって行くと、前方に白鹿がうずくまっていた。大師が近づくと白鹿の姿は霧の中に消え、やがてどこからともなく一人の白髪の老人が現れ、「この地は霊地であるから堂宇を建立するなら仏法が広まるであろう」と告げた。大師はこの老人こそ薬師如来の化身と感じ、一宇の堂を建立し嘉祥寺と名付けた。こうして白鹿の毛に導かれ山を越えて建てられたことから「毛越寺」と通称されたという。ちなみに毛越寺はモウツウジと読むが、越は慣用音でオツと読むので、モウオツジがモウツジとなり、さらにモウツウジに変化したと考えられている。

開山堂から右に進み、毛越寺の北西の最奥に、杉並木に囲まれた嘉祥寺跡がある。54個の巨大な礎石が残り、基壇は亀腹式の土壇である。藤原2代基衡が着工し、3代秀衡が完成させた御堂で、本尊は薬師如来であった。「吾妻鏡」にある嘉勝寺に相当すると考えられている。建物の規模は正面7間(約27.9m)、側面6間(約22.5m)で、金堂円隆寺とほとんど同規模の上に、同規模同形式の廊が付属することから、金堂並みに高い地位であったことが分かる。開山伝説の慈覚大師創設の嘉祥寺という寺伝はともかく、基衡の円隆寺建立以前から嘉祥寺が存在していたともいわれる所以である。

嘉祥寺跡から右手(東)に向かうと、次に講堂跡がある。基衡が建立したと伝えられる遺跡で、正面5間(19.1m)、側面4間(約15.1m)の建物で、土壇上には礎石34個が現存する。土壇中央部のやや北寄りには仏壇跡と思われる小高い土の隆起がある。金堂円隆寺の柱筋との関係から金堂と一体的に造営されたと考えられている。