半坪ビオトープの日記

達谷窟毘沙門堂


山深い夏油温泉から再び平泉に戻り、西南の厳美渓に向かいながら途中の達谷窟毘沙門堂に寄る。その手前の道路の右側に大岩があった。髢石(かつらいし)という高さ3mほどの巨岩であるが、その名の由来は達谷窟毘沙門堂の姫待不動堂にある。達谷窟に塞を構え良民を苦しめていた悪路王達は、美しい娘がいると聞くとさらってきて、窟上流の「籠姫」に閉じ込め、「桜野」でしばしば花見を楽しんだ。逃げようとする娘たちを待ち伏せした滝を人々は「姫待滝」と呼んだ。再び逃げ出せぬよう、見せしめとして首を切り落として太田川に流した。その首が下流の大きな岩に流れ着き髪の毛を絡ませた。この岩に娘たちの髪が「かつら」のようにまつわりついたことから、この巨石を「髢石=かつらいし」と呼ぶようになったという。

平泉中心から南西約6km、太田川北岸にある天台宗達谷西光寺境内西側に、東西約150m、最大標高差約35mの断崖があり、そこに掘られた洞窟が達谷窟である。窟の前面に毘沙門堂がある。一の鳥居は「八尺の鳥居」とも称され、達谷村の三人の石工により達谷石を用いて江戸時代に建立されたという。

別当は達谷西光寺だが、境内は神域とされ、入口には鳥居が建てられ神仏混淆の社寺となっている。石造の一の鳥居の奥には朱色の両部鳥居の二の鳥居及び三の鳥居が建っている。二の鳥居は「八丹の鳥居」、三の鳥居は「八杉の鳥居」と称され、三の鳥居は明治初期に、二の鳥居は昭和30年に失われたが、平成10年に再建された。どちらの鳥居も笠木の上には重厚な屋根が重ねられ、稚児柱にも通しの笠木と屋根が被せられるなど、他では見られない特殊な形式を伝えている。

三の鳥居の奥に達谷窟毘沙門堂が建っている。約1200年の昔、悪路王、赤頭、高丸等の蝦夷がこの窟に塞を構え、女子供を掠めるなど暴虐の限りをつくし、国府も制することができなかった。そこで桓武天皇坂上田村麻呂蝦夷征伐の征夷大将軍に命じた。延暦20年(801)田村麻呂は激戦の末、悪路王等の首を刎ね、遂に蝦夷を平定した。

田村麻呂は、戦勝は毘沙門天の加護と感じ、京の清水の舞台を模した九間四面の毘沙門堂を建て、108体の毘沙門天を祀った。翌年には別当寺として達谷西光寺が開かれ、奥真上人を開基と仰いだ。その後、前九年・後三年の役には源頼義・義家が戦勝を祈願し寺領を寄進、また奥州藤原氏初代清衡・二代基衡が七堂伽藍を建立したと伝えられる。文治5年(1192)源頼朝藤原氏を滅ぼした帰路、毘沙門堂に参詣したと「吾妻鏡」に記されている。

延徳2年(1490)の大火で焼失するもすぐに再建されたが、天正の兵火に遭った。慶長20年(1615)伊達政宗により再建され、爾来伊達家の祈願寺として寺領を寄進されてきた。昭和21年に類焼の憂き目に遭った。昭和36年に再建された現堂は、創建以来5代目とされる。毘沙門堂内陣の奥には、慶長20年伊達家寄進の厨子を安置し、慈覚大師が毘沙門天の化現である田村麻呂の顔を模して刻したと伝える本尊、吉祥天、善膩師童子(ぜんにしどうじ)を秘仏として納める。

達谷窟毘沙門堂の真正面に蝦蟆ヶ池弁天堂が建っている。昭和60年の調査で、蝦蟆ヶ池旧護岸から平安末期の土器が大量に発掘された。この弁天堂には、次のような伝説がある。昔、北上川や達谷川を美しい浮島が行き来するのを、慈覚大師は五色の蝦蟆(がま)の姿である貧乏をもたらす貪欲神が化けていると見破った。大師は島を捕らえて毘沙門堂の前まで引きい、再び逃げ出さないように一間四面の堂宇を建立した。

大師は、蝦蟆を降伏する白蛇、すなわち宇賀神王を冠に戴く八肘の弁財天女を自ら刻して祀り、蝦蟆ヶ池弁天堂と名付けたと伝えられる。現堂は平成25年に元禄再建時の旧規に倣って修復再建されたものである。

弁天堂の右手に、頼三樹三郎詩碑という大きな石碑が建っている。頼(らい)三樹三郎は、儒学者頼山陽の三男で、江戸時代末期の儒学者。22歳のとき高館に寄って詠んだ漢詩が高館義経堂にある詩碑に刻まれているが、ここにも寄ったと思われる。