半坪ビオトープの日記

柳之御所、高館義経堂


毛越寺から東に向かい、平泉駅を越えて北上川の手前に柳之御所遺跡がある。柳之御所は、奥州藤原氏初代清衡が江刺郡豊田館(奥州市)から磐井郡平泉に移ってきて居館を構えた所であり、3代秀衡が政庁・平泉館とするため再整備を行ったとされる。中尊寺の南東に位置し、柳之御所から北西方の金色堂を臨むように造営された。文治5年(1189)源頼朝の28万余の大軍に攻められた際に、藤原泰衡が自ら火を放ち炎上した。柳之御所の名は伽羅御所の名前に対比して、後世に名付けられたもので、「吾妻鏡」には平泉館と称したと記されている。

北上川西岸の標高25mに立地し、11.2haある一帯からは多くの掘立柱建物跡や巨大な堀、橋、道、園池、屋敷群跡、陶磁器などが出土している。そのうち約5haが柳之御所史跡公園として整備され、池、堀、道路などが復元されている。南側に柳之御所資料館(中央灰色の建物)があり、奥州藤原氏に関する資料や出土した遺物が展示されている。

柳之御所から北西の中尊寺に向かってすぐ左(東)、北上川に面して高館という丘陵がある。高館は、判官館とも呼ばれ、現在ではその半ばを北上川に浸食され狭くなっているが、この一帯は奥州藤原初代清衡の時代から要害地とされていた。丘の頂上には、天和3年(1683)仙台藩主4代伊達綱村義経を偲んで建てた義経堂があり、中には義経の木像が安置されている。

兄頼朝に追われ、少年期を過ごした平泉に再び落ちのびた源義経は、藤原3代秀衡の庇護のもと、この高館に居館を与えられた。しかし文治5年(1189)頼朝の圧迫に耐えかねた秀衡の子・泰衡の急襲に遭い、この地で妻子とともに自害したと伝えられている。

義経堂のすぐ右手に、源義経主従供養塔の宝篋印塔が建っている。昭和61年、31歳という短い人生を終えた義経最期の地であるこの高館に、藤原秀衡源義経武蔵坊弁慶八百年御遠忌を期して、供養のため造立された。

義経堂に上る最後の石段の左側に小さな資料館もあり、義経にまつわる様々な資料が展示されていた。ちょっとひょうきんなこの木像は、造られた時代は不詳だが、毛越寺にあった仁王像という。

こちらは「奥州高館合戦義経主従勇戦働之事」という錦絵である。

高館からの眺望は平泉随一といわれ、東に滔々と流れる北上川、束稲山(別名、東山)が見える。また西からは、かつてその流域で前九年・後三年の役の戦いの場であり、弁慶立ち往生の故事でも知られる衣川が、北上川に合流している。

あいにくの雨模様のため霞んでいてよく見えないのが残念だが、正面の北上川の向こうに束稲山の裾がかすかに認められる。衣川の古戦場は、左手奥にある。

束稲山は、かつて安倍頼時の時代に、桜の木を一万本植えたといわれる桜の名所であった。松尾芭蕉が門人・曽良を伴い平泉を訪れたのは、元禄2年(1689)旧暦5月13日(6月29日)のこと。この高館に立ち、眼下に広がる夏草が風に揺れ光る様を眺めた芭蕉は、100年にわたり平泉文化を築き上げた奥州藤原氏の栄華や、この地に散った義経を思い、かの名句を詠んだ。
「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。(中略)『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と笠打敷て時のうつるまで泪を落し侍りぬ」
夏草や 兵共が 夢の跡  芭蕉

近くには頼三樹三郎の詩碑も建っている。頼(らい)三樹三郎は、儒学者頼山陽の三男で、江戸時代末期の儒学者尊王攘夷派の志士として国事に奔走する間、22歳のとき高館に寄って漢詩を詠んだ。安政の大獄(1858)で捕らえられ、35歳で刑死した。