半坪ビオトープの日記

中尊寺、金色堂


阿弥陀堂の向かい、参道の左側に大きな讃衡蔵が構えている。奥州藤原氏の残した文化財3000点余りを収蔵する宝物館で、平安期の諸仏、国宝中尊寺経、奥州藤原氏の遺体の副葬品などが納められている。

讃衡蔵内は撮影禁止なので、パンフの切り抜きを載せる。讃衡蔵に安置されている3体の丈六仏(立像の時4.8m)座像は迫力がある。中央に阿弥陀如来、両脇に薬師如来が安置されている。阿弥陀如来はかつて本堂の本尊だった仏像である。

紺紙に金字行・銀字行を一行ずつ交書した清衡発願の「金銀字交書一切経」、変化に富む見返し絵が貴重な秀衡発願の「金字一切経」、ともに日本の写経史上の頂点を示すものとして国宝に指定されている。

讃衡蔵の隣、参道の左側奥に、中尊寺金色堂が建っている。金色堂は、中尊寺山内のやや西よりに東を正面として建つ小型の仏堂である。堂は昭和40年(1965)に建設された鉄筋コンクリート造の覆堂(おおいどう、さやどう)内にあり、ガラスケースに納められて外気と遮断されている。

金色堂を建立した奥州藤原氏は、前九年の役後三年の役の後の寛治元年(1087)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189)までの間、陸奥平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った豪族である。政権の基盤は奥州で豊富に産出された砂金と北方貿易であり、朝廷や藤原摂関家に献上品や貢物を欠かさなかった。清衡は陸奥押領使に、子の基衡は奥六郡押領使、出羽押領使に、孫の秀衡は鎮守府将軍に、ひ孫の泰衡は出羽、陸奥押領使と軍事指揮権を世襲していた。
ところが秀衡は源頼朝に追われた義経を匿い、頼朝の引渡要求を拒んできたが、秀衡の死後、子の泰衡は頼朝の要求を拒みきれず、文治5年(1189)義経を自殺に追い込み、義経の首を頼朝に引き渡すことで頼朝との和平を模索した。しかし頼朝は義経を長らく匿ったことを罪として奥州に出兵し、泰衡は殺され奥州藤原氏は100年余りで滅んだ。

金色堂内は撮影禁止なので、パンフの切り抜きを載せる。現存する金色堂の上棟は、棟木銘から天治元年(1124)と判明している。奥州藤原氏の初代藤原清衡が自身の廟堂として建立したもので、現存する唯一の創建遺構である。平等院鳳凰堂とともに平安時代浄土教建築の代表例であり、当代の技術を集めたものとして国宝に指定されている。
方3間(平面の1辺が5.5m)で、屋根は宝形造で木瓦葺きとし、軒は二軒繁垂木である。内部には4本の柱が立ち、その内側が内陣、外側を外陣とする。典型的な阿弥陀堂建築であり、内外ともに総金箔塗りで、皆金色の極楽浄土を現世に表している。

堂内に建つ4本の入側柱は巻柱と称し、蒔絵と螺鈿で宝相華文と仏像が表されている。その菩薩像は4体×3段×4本(柱)で計48体となる。内陣の天井は折上小組格天井で、三つの須弥壇上には阿弥陀三尊像等の仏像を安置する。須弥壇の側面は格狭間を設け、銅板打ち出しの孔雀文で飾っている。須弥壇内には、清衡と子の基衡、孫の秀衡、ひ孫の泰衡と、4代の遺体(ミイラ、泰衡のみ首級)が安置されている。
堂内安置の仏像は、中央壇、右壇、左壇ともに、中央に阿弥陀如来座像・観音菩薩立像・勢至菩薩立像の阿弥陀三尊像、左右に六地蔵地蔵菩薩立像、手前に二天像(持国天増長天)の仏像を配している。中央壇の阿弥陀如来像は典型的な定朝様で、本尊とされている。これらの諸仏と天蓋は、国宝に指定されている。