半坪ビオトープの日記

高知城


室戸岬は高知から80kmもあり、往復するだけで半日以上かかった。翌日は朝早く起きて高知城を見る。これは高知城の表門である追手門。石垣の上に渡櫓を載せた櫓門で、城の大手(正面)にふさわしい堂々たる構えを見せている。門前は門と矢狭間塀で囲まれた枡形状になっており、三方向から攻撃を加えることができるようになっている。慶長年間創建、寛文4年(1664)に再建された江戸時代からの現存であり、現存の天守閣とともに一枚の写真に収めることのできる唯一の城である。

追手門のすぐ右手に板垣退助像が建っている。板垣退助自由民権運動の父とされ、特に「板垣死すとも自由は死せず」の名言は明治時代の一大流行語となった。この銅像は昭和31年(1956)に再建除幕されたもので、題字は当時の総理大臣吉田茂の書。像の高さは2.2m、台座を含めた全高は6.4mである。

石段を登りきった杉の段と呼ばれる曲輪に出る。その右側に、馬の手綱を握った「山内一豊の妻=見性院」の像が建っている。小谷城浅井長政の家臣・若宮友興の娘で、嫁入り時の持参金で名馬を一豊に買い与え、それが元で信長の目に留まり出世したという逸話の馬と一緒である。

杉の段は井戸の段とも呼ばれ、藩主のお国入りや出駕の際にはここに一族が出迎えや見送りに出向いたという。ここの井戸の水が城内14カ所の井戸の内一番きれいだったので、この水を二の丸まで運んでいたという。深さ約18m、水深3mの井戸の跡が今も残されている。

三の丸石垣を下から見上げると、野面積みの中でも屈指の高さで最大13mあるという。三の丸にはかつて三の丸御殿が建っており、年中行事や儀式を行う大書院・裏書院・藩主の控えの間である御居間などから構成されていた。創建当時、室内は絢爛豪華な障壁画によって装飾されていたという。

この辺りから見上げる天守閣は、「咸臨閣」という別称を持っているが、実に見事である。高知城は、高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(44.4m)上に築かれた梯郭式平山城で、南の鏡川、北の江の口川を外堀として利用している。現在の高知城は、江戸時代初期に土佐藩初代藩主・山内一豊により着工され、2代忠義の時代に完成し、土佐藩庁が置かれた。天守は一豊の前任地だった掛川城天守を模したといわれる。本丸の建物が完全に残る唯一の城として知られる。

三の丸入り口に鉄門跡がある。門扉に多数の鉄板を打ち付けてあったのでこう呼ばれたという。門を囲む石垣は「打込みハギ」と呼ばれる手法による堅固な石垣が築かれている。

藩主の居住空間である二の丸御殿があった二の丸と本丸を繋ぐ役目を果たす櫓門が詰門で、藩政時代には「橋廊下」と呼ばれた。門内に侵入した敵が容易に通り抜けられないように、入り口と出口の扉の位置が筋違いに設置されている。一階は籠城用の塩を貯蔵する塩蔵になっており、二階は家老・中老などの詰所として用いられた。現在の呼称はここからきている。

本丸には天守・本丸御殿・納戸蔵・廊下門・東多聞・西多聞などの建造物が残り、いずれも国の重文に指定されている。

天守閣は外観4重内部3層6階の望楼型天守で、南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた安土桃山時代の様式である。最上階には徳川家康の許可を得て造ったといわれる廻縁高欄が付けられている。創建時のものは享保12年(1727)に焼失し、延享4年(1747)に焼失以前のものを忠実に再建されたといわれる。