半坪ビオトープの日記

石手寺、本堂


幸せの鐘の右手には、寄棟造本瓦葺きの阿弥陀堂が建っている。阿弥陀堂では毎月一回、無料でお灸を体験できるそうだ。

こちらの袴腰造りの鐘楼は、元弘3年(1333)の建立で重文に指定されている。建長3年(1251)の銘がある重文の鐘が吊られていて、住職しか撞くことができない。

本堂は本瓦葺き、正面側面とも5間、単層入母屋造の仏堂で、鎌倉末期の建立。国の重文に指定されている。本堂手前には巨大な金剛杵が安置されている。寺伝によると、神亀5年(728)に伊予国の太守・越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野十二社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇の勅願所となった。翌天平元年(729)に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の安養寺と称した。弘仁4年(813)に空海が訪れ、真言宗に改めたとされる。石手寺に改称したのは、寛平4年(892)の衛門三郎再来の説話による。河野氏の庇護を受けた平安時代から室町時代に至る間が最盛期で、七堂伽藍六十六坊を数える大寺院であった。鎌倉時代の風格を備え、立体的な曼荼羅形式の伽藍配置を現代に伝える名刹である。境内から出土した瓦により、石手寺の前身は680年頃(白鳳時代)奈良法隆寺系列の荘園を基盤として建てられたという考証もある。

本堂の左手には韋駄天堂がある。柱には大きな仮面が二つ掲げられ、堂内には高さ3mほどの韋駄天像が祀られている。床には健脚祈願と思われる七転八起再生石がたくさん置かれている。

韋駄天堂の脇には、都卒天洞・大仙窟の入り口がある。八十八ヶ所霊場と四十九修行場が設けられていて、様々な仏像や摩訶不思議な宗教絵画が次々に並んでいるそうだが、洞窟には入らなかった。

韋駄天堂の裏には、石手寺の裏山である愛宕山への登山道がある。道沿いには古墳が多くあり、ほとんど円墳で内部主体は横穴式石室の造りになっているそうだ。山頂には愛宕大権現の社が建ち、展望台からは常光寺山山頂の巨大弘法大師像が見え、松山市街地も眺められるという。

本堂右手には絵馬堂がある。中には観音像、日光・月光菩薩薬師如来十二神将がずらりと描かれている。半目隠しのラティスフェンスには、仏陀の嘆きなど色々と講釈が貼られているが、ゆっくり読んでいる時間はない。

絵馬堂の中の天井からは色鮮やかな手鞠が吊り下げられている。絵馬堂の向こうに、十二社権現堂が垣間見られた。十二社権現は、熊野三山に祀られている十二柱の神を分霊して祀ったものである。