半坪ビオトープの日記

鳳来寺


東照宮の石段を下ってさらに先の鳳来寺に向かうとすぐに、元三堂趾という石碑がある。江戸時代後期の三洲鳳来寺絵図や鳳来寺略縁起の景観では、薬師堂(本堂)や三重塔、弘法大師堂、元三大師堂などが描かれているという。

古めかしい狛犬が道端に祀られている前を通り過ぎると、左下から上がってくる表参道に合流する。

杉の多い鬱蒼とした参道を進むと、急に開けて広場となり鳳来寺本堂が現れる。寺伝によれば、鳳来寺山城国生まれの利修仙人が大宝3年(703)に開山したと伝わる。文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承があり、鳳来寺という寺名および山名の由来となっている。利修の加持祈祷が功を奏したか、天皇は快癒。その功によって伽藍が下賜されたという。利修仙人作とされる薬師如来を本尊として祀ったのが始まりとされ、ほかにも日光・月光菩薩十二神将、四天王も彫刻したという。

鎌倉時代には三河七御堂の一つとして栄え、戦国時代からは松平家と関係が深まった。徳川家康鳳来寺薬師如来の申し子であるという仏縁によって、江戸幕府の庇護を受け、最盛時には天台宗方12、真言宗方10の合わせて21院坊、寺領1350石の寺勢を誇った。明治初期の神仏分離により鳳来寺東照宮が分離され、鳳来寺は著しく衰退した。明治末期に真言宗高野山の所属となり規模縮小して存続が図られた。鳳来寺山麓の表参道沿いには、元天台宗の松高院と、真言宗の医王院が今でも残っている。
鳳来寺本堂の裏手には鏡岩と呼ばれる岸壁がある。この鏡岩そのものが信仰の対象であり、その下から古鏡などが多数発見されている。

鳳来寺山は過去に何度も大火に見舞われ、その度に建て替えられてきた。大正3年(1914)にも本堂を焼失したが、昭和49年(1974)に再建された。開祖とされる利修仙人は伝説の人で、色々な話が伝わっている。仙人は地元で悪さを働いていた三匹の鬼を改心させ、従者として従えていたそうだが、878年に308歳で亡くなる際、この三匹の鬼たちも仙人を慕って供をしたという。その鬼の首は鳳来寺本堂の下に封じられたとされる。その鬼の供養に寺の僧と村人が踊った田楽が今も地元に伝えられている。

鳳来寺本堂の脇には田楽堂が建っている。毎年1月3日にそこで鳳来寺田楽が演じられる。この鳳来寺田楽は鳳来寺が扶持を与えて田楽衆に奉仕させたので寺田楽と呼ばれ、田遊びの行事のみではなく、修正会や延年、国家鎮護の祈願や最も古い時代の舞の形が所々に残っているといわれる。
標高約450mの本堂前の展望台からは、深い谷底に門谷表参道の家並みがかすかに見下ろせる。彼方に見える尖った山は雁峰山(628m)だろう。

本堂の左手から奥の院に進むとすぐ右側に苔むした護摩堂が建っている。

護摩堂の中には、誰かわからないが二つの像が祀られていた。

さらに右に本堂の裏手に上がると、鎮守三社権現堂が建っている。

鎮守三社権現堂は東照宮と同じく、山王権現熊野権現白山権現を祀っている。本堂が罹災した時には、仮本堂の役割を果たしたという。

祖師堂下まで戻り、左の奥の院への道を進むと、鏡岩の下に出る。歴代住職の墓であろうか、洞窟の手前にはたくさんの石塔や石仏が立てられている。道の先には、昭和34年に再建された大きい鐘楼が建っている。梵鐘には棟方志功による十二神将が刻まれている。

奥の院から山頂周遊の道は険しそうなので、無理せずここで引き返すことにした。鳳来寺本堂を過ぎて表参道を下って行くとまもなく、左手に東照宮の鳥居があるので潜って駐車場に戻った。