半坪ビオトープの日記

石手寺、仁王門


道後温泉の東約1kmに真言宗の熊野山虚空蔵院石手寺がある。道後温泉に近く、境内ほとんどの堂塔が国宝や重文に指定されている文化財の多い寺院なので、巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場といわれる。

県道より伝説の残る、渡らずの橋の横を過ぎると、衛門三郎が懺悔している姿に出会う。昔、伊予の国浮穴郡荏原に衛門三郎という欲深い長者がいた。ある日托鉢の僧を弘法大師とは知らずに、彼の托鉢を取り上げ投げつけたところ、鉢は八つに割れた、その後八人の男の子が次々に死に、三郎は邪見を捨て改心し、四国巡礼に旅立つ。そして二十回札所巡りをしても大師に会えぬまま、遂に二十一回目は逆回りに回り(逆打ち)、天長8年阿波の国焼山寺の麓で病に倒れる。その時突然弘法大師が枕元に現れ、一寸八分の石に「衛門三郎再来」と刻み彼の手に授けると、三郎は安心して息を引き取った。その後この地方豪族河野息利に男子が生まれたが、左の手を握ったまま開かないのでこの寺に願をかけたところ、手の中から「衛門三郎再来」と書かれた石が出てきた。そこでこの石を当山に納め、寺号を安養寺から石手寺に改めたという。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっている。この衛門三郎の伝説が四国遍路の始まりとして広く知られている。

衛門三郎の後ろには天女の象が立ち、その奥には龍の頭の上に乗った龍頭観音が立っている。眼を開け観音ともいい、平成12年(2000)からここに立っているそうだ。

参道の右手に石碑がいくつか集められている。一番左は正岡子規の句碑である。
「南無大師石手の寺よ稲の花」明治28年(1895)日清戦争から帰還療養中の子規が、友人柳原極堂とともに石手寺を訪ねて詠んだ「散策集」中の句である。
一番右手には前田伍健の川柳碑がある。
「鎌倉のむかしを今に寺の鐘」昭和33年に建立された。前田伍健は、明治22年坂出市で生まれた川柳家伊予鉄道に入社し、終生松山を愛し定住した。

回廊には各地の霊場を巡礼した記念の額が、新旧織り交ぜてたくさん奉納されている。

回廊のある石畳を進むと間もなく右手に地蔵院があり、門の中を覗くと左手に山頭火の句碑がある。
「うれしいこともかなしいことも草しげる」昭和9年(1934)小郡の「其中庵」で詠まれた句である。

参道が右に曲がったところに大きな仁王門が建っている。この仁王門は、高さ7m、3間1戸の楼門で、二層入母屋造本瓦葺きである。文保2年(1318)の建立で、上層の回り縁の出が大きく、入母屋屋根の反りが高い。組物は二層とも三手先とし、中備(なかぞなえ)は正面は三面とも本蟇股、側面は間斗束(けんとづか)とし、鎌倉時代の特徴がよく現れ、国宝に指定されている。門の左右に運慶一門の作と伝えられる金剛力士の逞しい立像が安置されている。石手寺は永禄9年(1566)に長宗我部元親による兵火を受け建築物の大半を失っているが、本堂や仁王門、三重塔は焼失を免れている。
石手寺は、世界平和を絶えず発信している稀有なお寺である。1995年大晦日アジア太平洋戦争敗戦50周忌に「仏教徒の戦争責任」戦争懺悔の不殺生平和万灯会を催してから現在まで、戦死者を供養し不殺生平和の祈りを続けている。境内いたるところに平和を訴えるメッセージが掲げられている。仁王門の脇には「集団的自衛権不用」との立て看があった。

仁王門の先、右手に建つ三重塔も鎌倉末期の建立で、重文に指定されている。周りで四国八十八ヶ所のお砂踏みができる。

仁王門の先、左側に建つ仕合せの鐘は、だれでも撞くことができる。今年は平和の鐘と呼ばれているようだ。