半坪ビオトープの日記

竹生島、宝厳寺


唐門の前から右手に近道の石段があるのでそこを上がっていくと、右手に西国三十三ヶ所観世音奉安殿が建っている。

この奉安殿には、西国三十三ヶ所霊場の観世音菩薩をまとめて安置してあるので、ここを参拝することで西国巡礼を経たのと同じ霊験を得られるといわれている。

奉安殿の先の左手に行尋坊天狗堂が建っている。宝厳寺を開基する前、竹生島には天狗が多く住んでいたのを行基が説き伏せて手伝わせたという伝承がある。その時島の守護を誓う証とした天狗の爪が宝物館に保管されているという。

天狗堂の先で祈りの石段と合流するところに五重石塔が立っている。地水火風空の五大をかたどった仏塔で、高さは247cm。初層軸部の四面には、顕教四仏を半肉彫りしてある。比叡山中の小松石という花崗岩により、鎌倉時代中期に作られたもので、国の重文に指定されている。重文の五重石塔は全国で7基しかなく、これはその一つである。

五重石塔の向かい、境内の左脇に小さな妙音天堂が建っている。弁財天は大日経では妙音天と呼ばれるという。

いよいよ境内中央の宝厳寺(ほうごんじ)本堂の正面に至る。宝厳寺の寺伝によれば神亀元年(724)、行基竹生島を訪れ、弁財天を祀ったのが起源とされるが、承平元年(931)成立の『竹生島縁起』には、行基の来島は天平10年(738)で、小堂を建てて四天王を祀ったのが始まりといい、天平勝宝5年(753)、近江国浅井郡大領の浅井直馬養(あざいのあたいうまかい)が千手観音を安置したとある。当初は本業寺、のちに竹生島大神宮寺と称し、東大寺支配下にあった。平安前期に比叡山延暦寺の傘下に入り天台寺院となった。平安末期からは観音と弁財天信仰の島として栄えた。

先ほどの竹生島神社本殿が、古来より宝厳寺の本堂として本尊の弁財天を安置していたが、明治元年に発布された「神仏分離令」により大津県庁より、当山を廃寺とし、神社に改めよという命令が下った。しかし全国の信者の強い要望により廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すこととなった。本堂のないまま仮安置の大弁財天だったが、昭和17年(1942)にようやく現在のこの本堂が平安時代様式で再建された。本尊の弁財天像は秘仏のため、原則的に60年に一度しか公開されない。

本堂の左手に三龍堂が建っている。徳澤惟馨善神・潤徳護法善神・福壽白如善神を祀っている。

本堂の手前右手に三重塔が建っている。元の三重塔は、1484年に建立されたが、江戸時代初期に落雷で焼失。平成12年(2000)、約350年ぶりに古来の工法に基づき復元された。四本柱に32体の天部の神々を描き、四方の壁には真言宗の8人の高祖を配している。各柱や長押には繧繝彩色(うんげんさいしき)や牡丹唐草模様が描かれている。

三重塔の向かいには、樹齢約400年とされる「もちの木」が植えられている。慶長8年(1603)、豊臣秀頼の命を受け、普請奉行・片桐且元(かつもと)が伏見城から観音堂や唐門等の移築をした際に自ら手植えしたとされる。

三重塔の右手後ろに雨宝堂が建っている。ここに祀られている雨宝童子とは、神仏習合両部神道における神で、天照大神が日向に下生した時の姿、あるいは大日如来の化現した姿ともいう。

本堂の左手前に不動明王像と並んで「竹生島流棒術発祥之地」の石碑が建っている。「竹生島棒術」とは、平安時代末期に難波平治光閑が竹生島弁財天に参拝し、夢想会得したという。この石碑は、流祖800年祭を記念して平成9年(1997)に建立された。

本堂から祈りの石段と呼ばれる165段の急な石段を下っていくと、左手に護摩堂が建っている。護摩堂の本尊であった不動明王像は、天台智証大師円珍による11世紀前半の作と伝えられるが、今は宝物殿に安置されている。

護摩堂の向かいの角に鐘楼が建っている。この鐘楼も祈りの石段の脇にあるので祈りの鐘楼とも呼ばれる。

石段の脇に瑞祥水がある。昭和62年頃より川鵜の異常繁殖により緑樹は枯れ崖が崩れ、全島に亘り大きな被害を受けた。加えて山からの湧水も枯れ果ててしまった。そんな折、「ここに井戸を掘れ」との弁財天のお告げがあった。困難な工事の末、深さ230m(湖底下約130m)より、託宣通り清浄水が出たという。