半坪ビオトープの日記

三井寺、微妙寺


灌頂堂の前を左に進むと、唐院の表門いわゆる唐院四脚門から唐院を出ることになる。見返れば、四脚門の中に灌頂堂が見える。重文に指定されているこの四脚門は、寛永元年(1624)に建立され、当初は棟門形式だったのが、まもなく四脚門に変更されたとされる。

四脚門から灯篭の立ち並ぶ石段を下り、金堂から観音堂へ向かう道を右に進むと、すぐ村雲橋を渡る。勧学院の石垣の築地堀の手前にある。振り返ると道の向こう(北)に大きな金堂が構えているのが見える。村雲橋の左(西)の築地塀の中には勧学院客殿が建っている。桁行7間、梁間7間、一重入母屋造妻入、正面軒唐破風付総杮葺。慶長5年(1600)の再建であり、国宝に指定されている。学問所として延応元年(1239)に創立されたと記録されている。その後、火災や秀吉の破却にあうが、再建され現在に至る。内部は南北を大きく三列に分け、南列の一之間と広い二之間には、狩野光信による華麗な障壁画が部屋を飾られていたが、客殿は一般公開していない。

そのまま南に進むと、左の曲がり角に微妙寺が見える。微妙寺は三井寺の五別所の一つである。

正暦5年(994)に慶祚大阿闍梨により創建された、立派な伽藍を備えた寺院であったが、維新後に衰退したため三井寺境内に一堂が移築された。この本堂は安永5年(1776)の建築で、本尊は重文の十一面観音菩薩像だが、それは五別所の一つで廃寺となった尾蔵寺の本尊だったものである。湖国十一面観音霊場第1番札所でもある。

微妙寺前で左に折れ、東に進んでさらに石段を登ると西国札所の観音堂があるのだが、時間の都合で切り上げ微妙寺前の文化財収蔵庫を見ながらしばし涼む。智証大師生誕1200年を記念して、昨秋開館したばかりである。

文化財収蔵庫には、勧学院客殿の狩野光信が描いた障壁画39点を中心に、微妙寺の十一面観音菩薩像などの仏像や絵画など多くの重要文化財が収蔵・展示されていて興味深い。撮影は禁止なので三井寺のパンフの切り抜きを載せる。

帰りは勧学院の角を東に折れてまっすぐ総門に向かう。総門の手前左側に行者堂があった。門前には神変大菩薩の標柱が立ち、中の行者堂の向かって右手前には役行者像が立っている。本尊はもちろん役行者で、9世紀作という古い木造不動明王像も安置されている。

三井寺境内の南東のはずれにある総門は、西国札所の観音堂に向かうには便利だが、仁王門に比べると質素というか貧弱に感じられる。

総門手前を左に折れて仁王門前の駐車場に向かうと、左手に護法善神堂に通じる石橋がある。現在の護法善神堂は享保12年(1727)の再建である。本尊は護法善神として鬼子母神を祀っている。鬼子母神は従来人間の児を奪い食する悪鬼だったが、釈尊がこれを聞き母神の子を鉢で隠したところ、狂髪・啼哭して悲しんだ。釈尊が慈愛を垂れたところ、仏教に帰依し、以後善女神になったといわれている。毎年5月に催される千団子祭の日には、子供の無事成長、安産を祈る人々で賑わう。