半坪ビオトープの日記

三井寺、一切経蔵


閼伽井屋の裏手に進むと、右手に熊野権現社が建っている。智証大師が入唐求法され、大峰・熊野三山に入峯練行された事績に則り、平治元年(1159)当地に熊野権現を勧請し、三井修験道の鎮神とされた。現社殿は天保3年(1837)の再建である。本尊として、吉野の金峰山寺と同じ蔵王権現を祀っている。

さらに左手には、霊鐘堂が建っている。ここに安置されている梵鐘は、奈良時代の銅鋳造の古鐘で、国の重文に指定されている。

総高199cm、口径123cm、三井寺では数少ない智証大師入山以前の遺品である。奈良時代の古鐘の中では東大寺鐘に次ぐ規模を誇るが、鋳上がりは悪く、傷や欠損がある。昔、承平年間(10C後半)に俵藤太秀郷が三上山の百足退治のお礼に琵琶湖の龍神からもらった鐘を三井寺に寄進し、その後、弁慶が奪って比叡山まで引き摺り上げたという伝説があり、俗に「弁慶の引摺り鐘」とも呼ばれている。比叡山との抗争で持ち去られたとの記録もあり、幾度となく焼き討ちにあった当寺の苦難の歴史を象徴する遺品といえる。

弁慶鐘の右側には、「弁慶の汁鍋」という大鍋が奉安されている。重量120貫(約450kg)、外口径166.5cm、内口径123.2cm、深さ93cm、3段に鋳継ぎされた鎌倉時代の鋳鉄製で、僧兵たちが用いたことから「千僧の鍋」ともいわれる。

霊鐘堂からさらに進むと、右手に一切経蔵が建っている。桁行3間、梁間3間、一重裳階付宝形造桧皮葺、室町時代の建築であり、重文に指定されている。三井寺には珍しく禅宗様の堂であるが、もとは山口県の国清寺の経蔵で、慶長7年(1602)に毛利輝元によって移築、寄進された。

内部には高麗版一切経を納める回転式の巨大な八角輪蔵が備えられている。また、天井からは円空仏7体が発見されている。この写真はパンフの切り抜きを載せたものである。

一切経像から石橋を渡ると、唐院に至る。三井寺の開祖・智証大師円珍和尚(814~91)の廟所として山内で最も神聖な場所である。唐院の名は、智証大師が入唐求法の旅で持ち帰った教典類を収めたことに由来する。右手奥に三重塔が建っている。3間3層の本瓦葺、室町時代初期の建築で、重文に指定されている。慶長2年(1597)豊臣秀吉によって伏見城に移築された大和の比蘇寺の塔を、慶長5年に徳川家康三井寺に寄進したものである。初層の須弥壇には、木造釈迦三尊像が安置されている。

唐院中央に建っているのは、灌頂堂である。桁行5間、梁間5間、一重入母屋造桧皮葺、慶長3年(1598)の再建であり、重文に指定されている。伝法灌頂の儀式が行われる極めて重要な施設である。背後に建つ大師堂の拝所と灌頂の道場を兼ねている。桁行3間、梁間3間、一重宝形造桧皮葺の大師堂も慶長3年(1598)の再建であり、内部に2体の智証大師像(国宝)と黄不動尊立像(重文)が安置されるが、背後に隠れているので見逃してしまった。

灌頂堂の左手に建っているのは、長日護摩堂である。桁行3間、梁間3間、一重宝形造本瓦葺、正面は桟唐戸、両脇を連子窓、側面の正面寄りに舞良戸、ほかは横羽目板壁。灌頂堂とは渡り廊下でつながっている。長日護摩供を修する道場で、本尊は不動明王を安置する。江戸時代の後水尾天皇の祈願により建てられたという。