半坪ビオトープの日記

余部、大乗寺 


鳥取県の岩美町から山陰海岸を東に向かうと兵庫県に入る。まもなくして山陰本線の余部橋梁に出会った。下から見上げるとスッキリした姿の美しいコンクリート橋は、平成22年(2010)に架け替えられたものだが、初代の旧橋梁は明治45 年(1912)に開通している。11基の橋脚、23連の橋桁を持つ鋼製トレッスル橋で、高さ41m、全長310mと、日本最長のトレッスル橋であった。ちなみにトレッスルとは「架台」のことで、これに橋桁を乗せた構造を持つ桁橋である。「あまるべ」鉄橋の通称は子供の頃から知っていたが、もっと山間にあると思っていたので、こんなに海に近いところに架けられているとは驚いた。

余部橋梁のすぐ先、同じ兵庫県美方郡香美町香住区高野山真言宗の亀居山大乗寺がある。円山応挙の作品を多く所蔵するので知られ、別名、応挙寺あるいは応挙美術館と呼ばれる。苔むした石垣の上に重厚な山門が建っている。

山門は、三手先の組物や虹梁、木鼻などに精巧な彫刻が施されていて、県の文化財に指定されている。

山門の右手には大きな楠が聳えている。幹周6.16m、樹高26m、樹齢約800年で、香住町の天然記念物に指定されている。

よく見ると、山門の内側右手には梵鐘が安置されている。第二次世界大戦で金属供出されたが、融解直前に終戦となり、銘を頼りに戻された梵鐘である。天保15年(1844)八世密憧代発願、製作鋳造者下浜在住関対馬藤原家景。丈五尺、重量200貫。

山門をくぐり抜けた正面には、客殿が西方浄土の思想を取り入れ、西を向いて建てられている。客殿仏間の十一面観音菩薩像も西を向いて安置されている。寺伝によれば、大乗寺天平17年(745)に行基が自刻の聖観音を本尊として創建されたという。その後、戦乱を受け寺勢は衰退するが、江戸時代中期、天明年間から寛政6年(1794)にかけて、当時の住職・密蔵およびその弟子・密英により客殿が再興された。
密蔵は京都訪問の際に苦学中の円山応挙に銀三貫目を与えた。応挙は大成したのち、密蔵の恩に報いるため、弟子12名と共に客殿襖絵・屏風などに取り組み、寛政7年に完了した。このうち165点は国の重文に指定されている。

客殿障壁画は、山水の間、芭蕉の間、孔雀の間、農業の間、禿山の間、狗子の間、使者の間、仙人の間、仏間、鯉の間、藤の間、猿の間、鴨の間の計13室に円山応挙、呉春、長沢芦雪ら応挙一門により描かれている。円山応挙(1733-95)は、丹波の生まれで17歳の時、狩野派の石田幽汀に師事し、その後、自然の写生に専念したり、西洋の遠近法等の手法を学び、独特の新しい画風として写生画を完成し、円山派の祖として仰がれている。客殿玄関には応挙像が迎えてくれる。

どの部屋も見事な障壁画であるが、客殿内は撮影禁止のため、パンフの切り抜きを載せる。これは「芭蕉の間」の障壁画「郭子儀図」紙本金地着色、天明7年(1787)円山応挙筆の一部。

こちらは「孔雀の間」の障壁画「松に孔雀図」紙本金地墨画、寛政7年(1795)円山応挙筆の一部。なお、詳しく見たい方は「大乗寺円山派デジタルミュージアム」を参照されたい。

境内には円山応挙の顕彰碑・源應擧之碑がある。天明年間(1781-88)応挙は「源應擧」の画号を用いていたといわれる。

客殿の左手には観音堂が建っている。行基自らが刻んだと伝えられる木造聖観世音菩薩立像を祀っている。手前には五層の石塔が立つ。

大悲とは観音菩薩の別名で、観音菩薩を本尊として祀る観音堂は大悲殿と呼ばれるが、いわゆる本堂にあたる。

観音堂の左手には薬師堂(瑠璃光殿)が建っている。堂内には11世紀の仏師・智円作の薬師如来像のほか諸像が祀られている。