半坪ビオトープの日記

恵隆寺、三仏堂


昨年の10月中旬に、福島県の喜多方から裏磐梯、二本松などを巡った。磐梯山安達太良山に登りたかったが、会津地方は強風や雨が予想されていたのであきらめた。
磐越自動車道猪苗代湖の遥か西、会津坂下ICで下りて4kmほど戻った会津坂下町に、金塔山恵隆寺がある。真言宗豊山派の寺院で、本尊は十一面千手観音菩薩で、通称は立木観音という。古びた様子の仁王門は、慶長16年(1611)の会津地震で多くの伽藍が倒壊したとき、三年後に再建された最初の建物である。

古刹の山門を守るのは、像高261cm、金剛力士の木造立像二躯で、左手のこちらは口を閉じた吽形の仁王像である。下半身の裳の折り返しなどは厚く重々しく興味深い。鎌倉時代末から南北朝時代の作と推定されている。永正18年(1521)に仁王の腹が裂け、修理されたとの記録がある。

参道の左手に建つのは彰霊堂という。日清戦争以後の戦死者を祀っているそうだ。

参道の右手には手洗所がある。この水は享保18年以前(約250年前)に掘られた井戸水で、今でも安心して飲める天然水という。ここの手洗石鉢は、銘を「狐石」といい、河沼郡不思議石の一つである。昔、只見川の川岸にある集落にあって、よく狐が集まったそうである。

参道を進んで左側に三仏堂が建っている。空海の作と伝わる、薬師如来阿弥陀如来六地蔵菩薩の木像が安置されている。

右手の木像薬師如来坐像は、像高96cm、檜の寄木造、彫眼で入念に内刳りされている。衣文の彫りは浅く形式化しており、室町時代の作と推定されている。蓮台の裏に寛延3年(1750)に修理された旨の墨書がある。
中央の木像阿弥陀如来座像(伝紅玻璃阿弥陀)は、像高94cm、紅玻璃(ぐはり)色に彩色された阿弥陀像である。赤は密教で西方阿弥陀に対応する色で、寺伝では紅玻璃阿弥陀と伝えるが、密教儀軌と頭部の像容が異なり、いつの時代にか紅に染めて密教的信仰に応じたものと推定されている。本像は欅材で前後矧ぎにし、内刳りを施している。細身の体躯で脚部は薄く、衣文は形式化していて、鎌倉時代の作と推定されている。後補の輪光背の支木に、元禄16年(1703)に再興と刻書され、その修理で像身が塗り直されたと考えられている。
これら二つの仏像は町の重文に指定されているが、同じように古そうな左手の六地蔵は指定されていないので詳細が分からない。

参道右手に小さな福禄寿が祀られている。会津七福神の案内があるが、一般に会津七福神の福禄寿は、会津若松市の建福寺である。

その少し先の右手にこじんまりした小金塔が建っている。昭和57年(1982)境内にあった小金塔跡から4個の礎石が発見され、18年かけて平成12年に再建された。素木造りの三重塔である。

再建と同寺に、小金塔の本尊として祀ってあった大日如来像も修復され、現在に至っている。