半坪ビオトープの日記

平泉、中尊寺


平泉の中尊寺参道入口前の広場に、武蔵坊弁慶の墓と伝えられる宝塔がある。交通の激しいところで裏手から見るだけだったが、大きな墓碑の脇の松の根元に高さ58.5cmの宝塔があるという。平泉型の一石宝塔で、平安時代後期の作と推定されているが、ここに置かれているのはレプリカで本物は中尊寺讃衡蔵に保存されている。

弁慶の墓の脇に中尊寺参道の入口がある。中尊寺天台宗東北大本山の寺院で、山号は関山なので「関山中尊寺」の寺号標が立っている。境内は国の特別史跡に指定されていて、ここから始まる月見坂と呼ばれる参道を登った丘陵上に、金色堂などの諸堂が散在する。

月見坂を上り始めて間もなく、左側に小さな八幡堂が現れる。創建は天喜5年(1057)、当時鎮守府将軍であった源頼義と子の義家が、俘囚の長である安倍氏を討つ(前九年合戦)ため、ここ月見坂で戦勝祈願したことが始まりとされる。鎌倉時代の「吾妻鏡」では中尊寺八幡神社で法会が行われたことが記されている。明治初頭の神仏分離令により八幡神社から八幡堂となり、本尊を阿弥陀如来尊像としている。

次に、参道の左に弁慶堂が建っている。入母屋造金属板葺きの屋根で、かなり細かい彫刻が施されている。

案内によると「この堂は通称弁慶堂という文政9年(1826)の再建である。藤原時代五方鎮守のため火伏の神して本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した。傍らに義経公と弁慶の木像を安置す」とある。

今度は月見坂の右手に地蔵堂が建っている。小さな地蔵菩薩が安置されているが、由来は分からない。後ろには北上川を眺めることができる。

地蔵堂の右手には石碑が二つ立っている。奥に西行の歌碑と手前に臼田亜浪の句碑である。西行は20代後半と60代後半の二度平泉を訪れている。臼田亜浪は芭蕉を敬慕し、自然詠から民族派となった大正・昭和前期の俳人である。
きゝもせず たばしねやま(束稲山)のさくらばな よし野の外に 斯るべしとは   西行上人
夢の世の 春ハ寒かり 啼け閑古  亜浪

地蔵堂の向かい、参道の左側には薬師堂が建っている。案内板によると、藤原清衡中尊寺境内に建てた40余りの堂塔の一つであり、明暦3年(1657)に現在地に移された。

地蔵堂内には、慈覚大師作と伝えられる薬師如来が安置され、脇仏として日光菩薩月光菩薩が安置されている。中尊寺山内の薬師堂のうちで唯一、薬師如来の分身または化身ともいわれる十二神将が併置されている。