半坪ビオトープの日記

妙法山阿弥陀寺  


熊野那智大社から旧那智山スカイラインを車で10分ほど上ったところに妙法山阿弥陀寺がある。那智三峯の一つ妙法山(749m)の山頂近くに建つ寺で、駐車場前から眼下に熊野灘の大海原が望まれる。真下左手には那智湾と那智勝浦のリアス式海岸が、その右手には太地の半島が見える。

鬱蒼と茂る杉並木に囲われた苔むした参道の石段は、かなりすり減っていて長い歴史を感じさせる。

急な石段を上りきると開けた境内が現れ、正面に南面する山門が見えてくる。お寺には珍しい鳥居門で、熊野大鳥居門と呼ばれる。

開創は不詳だが寺伝では、大宝3年(702)唐の僧・蓮寂が法華三昧を修し、法華経を書写して山頂に埋経し、その上に釈迦如来を安置したのが今日の奥の院の基とされ、これを開創であるとする。近世紀州藩の編纂した『紀伊風土記』では、阿弥陀寺空海の開基であるとし、弘仁6年(815)に如法山を訪れ、釈迦如来を本尊として開創したとする。しかし、奈良時代の『日本霊異記』に、法華持経者の永興禅師と同行の禅師が熊野の山中で捨身行に臨み、骸骨のみの姿になっても、その舌のみは依然として生前同様に法華経を誦し続けていたと伝えているが、この山とは那智山中の妙法山であるという。その後、弘安3年(1280)に鷲峰山興国寺開山の法燈国師覚心の再興により浄土信仰の今日の阿弥陀寺が確立されただけでなく、念仏と納骨の山としたとみられており、資料上、阿弥陀寺の存在が確実なのはこの時期からである。明治初期に一時期衰えたが、明治17年(1884)に再興された際に真言宗寺院に転じた。昭和56年(1981)原因不明の火災により本堂が焼失し、多くの寺宝が失われた。現存する本堂は、昭和59年に再建されたものである。 

阿弥陀寺には本尊(阿弥陀如来)のご詠歌が伝えられており、本堂正面にその額が掲げられている。
「熊野路をものうきたびとおもふなよ 死出の山路で思ひしらせむ」「空海のおしへのみちはひとつかね 弥陀の浄土へ共に南無阿ミ」
熊野が巡礼地として確立する中世において、熊野は阿弥陀如来の顕現する地、すなわち来世・浄土と考えられており、そこへの巡礼は象徴的な意味での死と再生であった。

昭和56年の火災では、運慶・快慶とも伝わる慶派作の本尊の阿弥陀如来も焼失した。現存の阿弥陀如来は、旧仏像の写真をもとに京都の大仏師・松久宗琳の復元によるという。本尊の他に不動明王千手観音菩薩役行者なども安置されている。

阿弥陀寺は女人禁制の高野山の代わりに女性が多く参詣したので、女人高野とも呼ばれた。ここはまた、熊野における特異な葬送民俗伝承との関係が深い。熊野では、死者の枕元に供える3合の枕飯が炊き上がるまでの間、死者の霊魂は枕元に手向けられた樒(しきみ)の葉を一本手にして妙法山に参詣し鐘を撞くとの伝承から、阿弥陀寺の鐘は「亡者の一つ鐘」と呼ばれ、「人なきに鳴る」と称される。霊魂は樒を山頂の奥の院・浄土堂に供え、それから大雲取越えの山路を歩いていく。これを「亡者の熊野詣で」という。奥の院周辺は樒が多く、樒山とも呼ばれる。この一つ鐘の話は、鎌倉時代の『元享釈書』に初出し、現世安穏と先祖菩提のために生前に一度は撞いておくべきと勧められている。現存する鐘は、延宝6年(1678)の鋳造と伝えられる。

本堂の左手に奥の院に向かう参道があり、本堂を右手に見ながら進むとすぐ右手奥に三宝荒神堂が建っている。

妙法山の鎮守である三宝荒神を祀っている。木造の荒神像は珍しく、三面六臂の憤怒尊で、紀州徳川家初代藩主徳川頼宣が勧請した。開帳は11月頃という。

三宝荒神堂のすぐ先に「人民開放戦士の碑」がある。石碑の左下の趣意書には、「明治の末以来将来にわたる、当熊野地方の先覚者達の氏名を記した玉石を納める。時の権力の不当な迫害に屈せず、人民の正義と真理を求め、命がけで努力した人々です」とある。右下の苔むした石は、荒畑寒村の歌碑である。「人のため 世のため立ちて 戦いて 仆れし友 豈忘れやも」

参道を左に進むと、比較的新しい子安地蔵堂に行き当たる。

子安地蔵堂の右手は、火生三昧(かしょうざんまい)跡という。平安時代の法華持経者・応照が火生三昧(焼身による捨身行)を行った遺構と伝えられる。応照は、全ての衆生の罪を我が身に負って、その罪ごと身体を焼尽することを志し、食を絶って心身を浄化した末、薪の上に座し、紙の衣をまとって自ら薪に火を放った。身体が燃え尽きるまで晴朗な読経の声が止むことはなかったと、平安時代末の『本朝法華験記』に記されている。

火生三昧跡から右手に奥の院への参道が山道となって上っているのだが、下手に納骨髪堂と大師堂が並び建っている。平安時代末から鎌倉時代にかけて盛んに行われた俗に「蟻の熊野詣」といわれる熊野参詣の旅人達が、阿弥陀の極楽浄土へ行けることを願って毛髪を納骨髪堂に納めた。その後、室町時代から現在に至るまで、亡き人の菩提を弔うために遺髪や遺骨を納めている。大師堂は永正6年(1507)の建立で、弘法大師42歳の姿と伝わる等身大の坐像(厄除け大師)が祀られている。年2回ほど開帳される。

釈迦像が立っている入口から約800m登ると奥の院に着くが、時間の都合で諦めた。奥の院は妙法山(749m)の山頂に建つ浄土堂で、釈迦如来が祀られている。開創とされる蓮寂上人が妙法蓮華経を書き写して土中に埋め、その上に立った木をそのまま彫って釈迦如来像を安置したので、山の名前も山号も妙法山となったと伝わる。