半坪ビオトープの日記

小網寺


館山から白浜に向った山間に、真言宗の小網寺がある。参道入口左に高さ3mの寺号碑があり、金剛山小網寺の寺号と、側面には小網寺西光寺合併記念と彫られている。関東大震災の翌年に合併し再建した記念に建てられた。

参道を進むと赤い仁王門が建っている。獅子頭の彫刻は、明治25年(1892)後藤義光78歳の時の作である。

仁王門をくぐって石段を上り詰めると観音堂が見え、左手に苔むした宝篋印塔が建っている。観音堂が延享2年(1745)に落成した記念碑である。

境内正面には安房国札三十四観音の第32番札所の観音堂が建っている。三間四方の観音堂は、明治初期の建築で、関東大震災の被害を免れている。観音堂手前の一対の石灯籠は、地元の氏子達により天保12 年(1841)に寄進されたものである。

本尊の木造聖観音立像は、像高110cmの檜材で、厨子の中に安置されている。平安時代後期の作とされ、市の文化財に指定されている。

仁王門右手の瓦葺の鐘楼にかかる梵鐘は、弘安9年(1286)に鎌倉の鋳物師物部国光が製作したもので、総高107.5cm、口径62.1cm、三段組に鋳上げられていて、国の重文に指定されている。
上帯には飛雲紋と日月を、下帯には密教法具の三鈷杵を鋳出し、撞座は八葉複弁である。物部国光は、鎌倉円覚寺の梵鐘も鋳造した有名な鋳物師である。

小網寺は和銅3年(710)の創建と伝えられ、古くは大荘厳寺と呼ばれ、行基・良弁・弘法・慈覚大師などが来山したという。弘安5年(1282)には密教道場として隆盛し、「安房高野山」ともいわれるほど栄えたが、その後荒廃し、文明5年(1477)に宗秀上人が中興開山として再興した。里見氏からは15石、江戸時代は幕府から25石の寺領を与えられ、西岬・神戸地区を中心に33ヶ寺の末寺をかかえていた。
鐘楼の手前を右手に進むと、本堂が建っている。現在の本堂は、明治23年(1890)に建築されたものであり、本尊は不動明王である。

向拝虹梁の彫刻は、千倉の名工・後藤義光が彫ったものである。彫物すべてに神余・相浜・洲宮などの寄附した人の名が刻まれている。
後藤義光の2頭の龍の彫刻は、顔の形相が迫力に富んでいて興味深い。

木鼻の獅子鼻、象鼻の彫刻もきめ細かい。虹梁下の持ち送りの彫刻も、波の合間から魚の姿が垣間見られるもので面白い。

向拝の海老虹梁も反り方が大きく、その上の手挟みも一般的な牡丹や菊の花や葉ではなく、睨みを利かせた鳥が彫られていて個性的である。海老虹梁下の持ち送りは、波の合間から亀の姿が見える。

中備にも細かな彫刻が施されている。これは、梅に鶯ではないかと思う。