半坪ビオトープの日記

住吉寺


千倉町南朝夷に中嶋山住吉寺という真言宗智山派の古刹がある。住吉寺の名は、左に隣接している住吉神社から名付けられたといわれる。

境内に入ると正面に本堂、右手に庫裡があり、観音堂は左手の急な石段を上ったところにある。

昔は海中の岩上に御堂があって船で参拝していたが、元禄の大地震で海中が隆起し陸続きになったという。海中にあったころに中島と称し、その名が山号に残って中嶋観音と呼ばれている。寺の裏側を流れている川尻川までが海岸線だったといわれ、今でも観音堂の裏には船を係留した岩が残っている。
石段の途中など境内には句碑がいくつかあり、大阪の住吉神社が歌の神社として知られることと関係があるともいわれる。六地蔵の左の石碑は、土佐與市の頌徳碑である。紀州で生まれた與市は鰹節の土佐節製法名人になり、転々と東国に移り千倉の網元に厚遇されて秘法の燻乾法を伝授した。千倉産の鰹節は一躍有名となり、その製法は房州に広まったという。
その左の細長い石碑は、国札観音標石である。安房国札27番の寺号と観音菩薩の尊号が書かれ、昭和3年に奉納されたものである。
その上に立つ五輪塔のような形の石塔は、六十六部供養宝塔である。法華経経典を全国66ヶ国に納経して回る巡礼者を六十六部、略して六部と呼ぶが、貧者は経典の代わりに厨子を背負って勧進しながら回る者も多く、行き倒れや六部隠しなどにも遭う苦難の旅だった。この宝塔は、結願供養のため、江戸小田原町の伊丹屋半兵衛・信州松本の上条源治が願主となり、鈴木新兵衛が施主として延享元年(1744)に建てた塔である。

急な石段を上り詰めた高台には、観音堂が建っている。天保年間(1830~44)に改築された三間四面の御堂に、行基作と伝える正観世音菩薩が安置されている。

外陣には、江戸末期の百観音巡礼奉納額が掲げられている。向拝の木目を生かした精巧な彫刻は、初代後藤義光の70歳のときの作である。

向拝虹梁の龍の彫刻は、大小・親子の龍であろうか、あるいは龍が何者かと戦っている様子だろうか、たいへん迫力に富んでいる。

向拝裏には北千倉漁師中世話人・当所世話人等の連名がある。天井右手の手挟みの彫刻も、松の葉だろうか、珍しい意匠で工夫されている。観音堂外周の海老虹梁・象鼻・獅子鼻などにも寄進者の名が刻まれている。

観音堂内には正観世音菩薩が安置されているというが、御開帳前なので残念ながら見ることはできなかった。

本堂の左手や裏手には、古い石仏や歴代住職の墓など、古い石造物がたくさん集められ歴史を感じさせる。