半坪ビオトープの日記

下立松原神社


千倉駅のすぐ西の千倉町牧田の道路脇に下立松原神社がある。鳥居がなく分かり難いが、狛犬の先に石段が見える。

下立松原神社は、千倉町と白浜町にもあり、いずれも「天日鷺命」を主祭神とし、式内社安房国朝夷郡下立松原神社」の後裔社を称しているが、どちらにも決め手はない。どちらの社伝でも、天富命とともに安房に渡り当地を開拓した天日鷺命の孫の由布津主命が、神武天皇元年に天日鷺命を祀ったのに始まると伝えている。何本もの巨木に囲まれた鬱蒼とした森の中に社殿が見える。

千倉町の下立松原神社は、天日鷺命・木花開耶姫命・月夜見命を主祭神とする。
鳥居の代わりではないかと思われる注連縄が張られた二本の大杉の間の奥に建っているのは、拝殿ではなく本殿を保管している覆屋(鞘堂)のように思われる。この大杉の樹齢は600年ともいわれる。鳥居がないことには次のような伝承がある。源頼朝が石橋山の合戦に破れて安房に逃れてきたとき、豪族丸五郎の案内で当社にて戦勝祈願した折、敗戦の身をはばかり鳥居を避けて脇から入ろうとしたところ、氏子達が鳥居を取り除き招き入れたとされることから、以来鳥居は作られることなく、鳥居のない神社になったという。

覆屋の中を覗いてみると、彩色と彫刻の施された流造の本殿が見えた。この本殿の彫刻は、初代波の伊八の作で、左右の登高欄持送の龍の顔には真に迫力があり、虹梁木鼻などに彫られた獅子や麒麟などの瑞獣の彫刻も見応え十分である。

覆屋のすぐ左には当地牧田の神輿が納められた建物がある。

その左手には、四つの小さな境内社と十八社宮碑がある。境内社は、右から八雲神社・稲荷神社・天神社・子安神社である。十八社宮碑によると、下立松原神社のほか、駒形・浅間・垂迹・御霊白幡大明神・境内別殿四社・六所明神・歯神・疱瘡神が合祀されている。この石碑は昭和56年に建てられている。

境内の左手奥には、下立松原神社の末社、御霊白幡神社が建っている。源頼朝が伊豆で挙兵後、ここに来て再挙を図って戦勝祈願し、鎌倉に幕府を開いた後、元暦2年(1185)に乳兄弟である安房の豪族安西三郎景益に御霊白幡大明神の廟堂を建てさせ、その後、源頼義・義家の木像と薬師如来の像、頼朝自らが書写した大般若経600巻を奉納した。その大般若経は、明和9年(1772)に経塚に納められた。この本殿も下立松原神社の本殿とほぼ同じ造りで、やはり初代波の井八の精巧な彫刻が施されている。

下立松原神社と御霊白幡神社との間に頼朝が奉納した大般若経を石函に納めた経塚が建っている。碑文の書は江戸の儒学者越克明。南千倉に漂着した清国船「元順号」遭難救助の記録を書いた人である。遭難救助記念碑は、南千倉海岸に建てられている。
経塚の手前には頼朝公馬洗池跡という小さな水たまりがある。