半坪ビオトープの日記

白間津の日枝神社


白浜から千倉に向うと、白間津という半農半漁の村落の奥に日枝神社がある。その日枝神社の手前右手に、明治に入るまで日枝神社別当寺として神社を管理していた円正寺がある。この寺の創建も、神社と同じ延喜年間であると伝えられている。里見氏の信仰も篤く、寺領12石余りを下賜されたこともある。

円正寺の左隣に日枝神社の広い境内が見渡せる。日枝神社の創建は、延喜元年(901)と伝えられている。祭神として祀るのは、滋賀県大津市日吉神社、京都の松尾大社や各地の日枝神社または日吉神社と同じ大山咋命(おおやまくいのみこと)である。

伝承によれば、白間津の開拓に従事した田仲八軒が開拓の成功を祝い、故国(京都の説あり)から大山咋命の神霊を迎えて奉祀した。
初めて奉祀した時の儀式を永く伝えるため、旧暦6月15 日を大祭と定めたというのが、「白間津の大祭(おおまち)」の由来である。
白間津の大祭は、日枝神社の祭礼として4年毎に行われ、わずか230戸の村落のほぼ全員が参加することが特異とされる。
祭りの主な行事は、「ササラ踊り」などの奉納舞、海岸の仮宮に神を送る「お浜降り」の行列、大幟に綱をつけて引き合う「オオナワタシ」、角材の上に四斗樽を二つ括り付けて振り合う「酒樽萬燈」である。
邑中の男女の性別・年齢により祭礼の役割がそれぞれ決まっていて、古くからの慣わしがかなり正確に残っており、民俗的にたいへん貴重な祭りといわれている。国の重要民俗文化財に指定されている。

向拝虹梁の彫刻は、明治20年(1887)後藤義光73歳の制作である。義光はとても長寿で、米寿で亡くなる明治35 年(1902)にも彫刻している。獅子鼻の気迫のこもった形相も見事である。虹梁に彫られた波に鳥も素晴らしい。虹梁下の持ち送りの彫刻も、波の合間から魚の姿が垣間見られるもので面白い。

千倉出身の後藤義光は、鴨川出身の波の井八とともに安房名工として知られるが、その作品は、荒仕上げの中に優しさがあり、木目を巧みにいかした美しさは見る者を引きつけるといわれる。とりわけ竜を得意として、寺社の向拝・虹梁などによく玉取り竜が彫られる。

二重虹梁の木鼻に、何羽もの鳥が群れている、兎の毛通しのような透し彫りが施されているのは珍しい。

反り返る海老虹梁の持ち送りの波に亀の彫刻も、その上の手挟みの鳳凰のような彫刻も、小網寺の意匠とよく似ていて手が込んでいる。

通常は何もない通肘木にも、牡丹の花枝を咥えて無邪気に駆ける狛犬の彫物が施されるなど、随所に独創的な意匠がちりばめられていて興味が尽きない。

拝殿内にも「亀に乗る浦島と竜宮城」の彫刻があるが、出来具合は今ひとつで、こちらは義光の作とは思えない。

裏に続く本殿は覆屋のようで、その中に旧本殿があるのではと思われる。