半坪ビオトープの日記

阿邪訶根神社


郡山駅のすぐ北西に総産土阿邪訶根(あさかね)神社がある。社伝によると、康平年間(1058-64)、伊勢国の阿坂(阿邪訶)より猿田毘古命の分霊を迎え祀り、道祖神社として創建されたのが始まりとされ、俗に「総産土(うぶすな)大神」と称されていたという。伊勢の阿射加神社は「延喜式」に名神大社として録される古社である。猿田毘古命は邇邇芸命の天降りの際に道案内をした国津神で、道を導く交通安全の神として祀られている。その後、寛治3年(1089)に源義家の副将として前九年の役後三年の役に出征した平忠道が亡くなると、その御霊を合祀し、社名を御霊宮と改めた。さらに明治2年に社名を忠道神社と改め、明治22年(1889)には阿邪訶根神社と改めた。拝殿の屋根には、社紋の左三つ巴と、二本松藩主・丹羽氏の家紋である直違(×印)紋が見える。

現在の切破風造の拝殿は、寛延2年(1749)に焼失して、翌年に本殿とともに再建されたものである。向拝の彫刻もまずまずの出来である。社額には珍しく「総産土」と書かれている。

本殿は、細長い幣殿の後ろにあり、神社脇の歩道を進んで見上げることになる。主祭神は、猿田毘古命を祀り、平忠道の霊と宇迦之御魂命を合祀している。

境内には、県の重文である石像法華曼荼羅供養碑がある。松平定信が編集した「集古十種」にも収められた治暦3年(1067)の刻銘があるが、それは追刻と考えられている。高さ273cm、下幅130cmの凝灰岩製で、鎌倉時代初期のものと推定されている。板碑上部の大円内に月輪を刻み釈迦の種子「バク」の凡字があるというが、ほとんど判読不能といえる。
曼荼羅供養碑の左下に、市の重文である阿弥陀三尊塔婆が無造作に立てかけられている。厨子をかたどった縁内に、阿弥陀三尊を浮彫りしている。中尊の右が観音菩薩で、極楽浄土に生まれ変わる者を取り上げるための蓮台を持ち、左の勢至菩薩は合掌し、両菩薩とも膝をかがめている。高さ91cm、幅62cmの俗に福原石と呼ばれる凝灰岩製で、鎌倉時代末期の作と推定されている。

曼荼羅碑と阿弥陀三尊塔婆は、覆屋に覆われて保存されている。これは本堂前から裏面を見た様子である。

境内には他にも大きな石碑が建っている。右の石碑には、大正時代に神社を修復したときの経緯が記されている。

境内中央には、御神木である欅の巨木が枝葉を広げている。

境内道路寄りには、月夜見命、山神、湯殿山などが祀られている。