半坪ビオトープの日記

駒宮(平山)神社


吾平津神社の2kmほど北の平山に、駒宮神社がある。祭神として神武天皇を祀り、『記紀』の伝承に由縁をもっている。平山にあるので平山神社とも呼ばれるが、地元では「駒宮さん」の名で親しまれている。一の鳥居には駒宮神社の扁額が掲げられている。

駒宮神社の創始は不詳だが、社伝では文武天皇元年(697)創始と伝えられている。駒宮神社は神武天皇の幼少時の少宮趾として伝えられ、「駒宮大明神縁起」によると、弘治2年(1556)には駒宮領2町、足洗田1町を御供田として有していた。近くの広渡川北岸に安政元年(1854)まで神宮寺があったが氾濫で水没した。また入田原に大馬場があって流鏑馬神事で賑わったという。二の鳥居の扁額には「丸に五三桐」の社紋が彫られている。

鵜戸神宮の縁起に関連して、「駒宮アリ、神武天皇ガ舟釣リヲサレシ折、龍神カラ賜ッタ龍石トイフ龍馬ヲ祀ル。天皇幼少ノ時、吾平山(境内地)ニ住ミ給ヒケルガ、折々鵜戸ノ父君ノモトニ通ヒ給ヒシ時ノ『駒繋ノ松』(舟繋の松)、草履石、駒形石ナドノ古蹟ガアル」という。また神武天皇が吾平山を後に宮崎に向かう時、愛馬龍石を草原に放たれたという「立石」(当社より約4km北)は、その後「日本最古の牧場」となり、藩政時代には牧奉行が置かれ、その駒追には必ず馬を引き下し、駒宮に参る風習から、例祭には近郷近在から着飾った数多くの農耕馬が集まり賑わいを極め、「シャンシャン馬」もこれに始まり、シャンシャン馬踊りも農家の手により奉納されたという。
社殿の前には、神武天皇と愛馬龍石号を象った石像が置かれている。

拝殿内には、神武天皇と書かれた扁額が掲げられている。棟札によると元禄の再興は正保年間の炎上によるもので、その後宝永3年(1706)に拝殿、宝暦13年(1763)に造営が行われ、伊東家からは神領3石のほか領主参拝の都度、銀2両が奉納されている。

社殿裏手、本殿の左手に天鈿女之社がある。天鈿女之社には、天鈿女之命のほか神代七代の神々が従える四十九柱の神霊を祀っている。昭和9年に本殿、同15年に本殿及び拝殿等を改修し、現在に至る。

天鈿女之社の左手に古蹟「御鉾の窟」に上がる石段と鳥居がある。

駒宮神社境内地は神武天皇の幼少時の少宮趾として伝えられ、日本書紀巻第三によると、「年十五にして立ちて太子となりたまふ。長(ひととな)りたまひて日向国の吾田邑の吾平津媛を娶きて妃としたまふ。手研耳命を生みたまふ。」と記されている。この山は長田山といわれ、石段上に巨岩がある。神社の由緒記によると、「神社ノ後方ニ大岩有リ。天皇後ニ宮崎ノ宮ニ向ヒ玉フ時、此ノ岩ノ下ニ御鉾ヲ納メ玉フト云フ。旧時御神体トシテ奉祀サレシモノト傳フ。」と記されている。大岩は高さ約8m、幅約5mで、山肌が露出した部分である。巨石信仰、古代祭祀の跡に似つかわしい所である。

御鉾の窟から本殿の裏手の遊歩道を、流造の本殿をぐるっと回り込むように進んで右手へ下っていく。

広場の左奥に大元之宮がある。ここには天之御中主神などの別天神八柱の神霊を祀っているようだ。神武天皇にあやかって新しくまとめて作ったようで、なにやら胡散臭い感じがする。

大元之宮の左手には摂社・宮毘之社がある。祭神として神日本磐余彦天皇(神武)・猿田彦之命・宮毘姫之命を祀っている。

宮毘之社の左には伝説の龍神之池がある。龍神から賜った龍馬の伝説にあやかったようだ。

大元之宮から社殿の前に戻るのだが、その角に神楽殿があり、その手前に「神武天皇遊幸伝説地 平山」の石碑が立っている。神話の世界の神武天皇にゆかりの地としての「日向国吾田邑」に比定される地はほかにいくつもあり、薩摩半島南さつま市加世田付近が有力とされている。そういえば隼人塚の際に書いたように、薩摩半島には阿多隼人が住んでいた(明治時代まで薩摩半島は阿多半島と呼ばれていた)。そして早くから朝廷に仕えていたのが阿多隼人とすれば、この阿多と吾田が通ずると考えるのは無理がない。