半坪ビオトープの日記

油津、吾平津神社


かつては江戸時代の名産品・飫肥杉の出荷港として栄え、昭和初期には東洋一のマグロ漁港として賑わった油津は、古くは油之津とも呼ばれていた。宮崎市田野町甲の天建神社縁起書に、百済の王が油津に漂着した伝説が記載されている。遣唐使の時代から日本と中国大陸をつなぐ貿易の中継地であり、倭寇の拠点としても利用されていた。江戸時代に飫肥杉の需要が高まると、木材運搬のため北を流れる広渡川と油津港を結ぶ全長984m、幅約30mの堀川運河が、飫肥藩主・伊東祐実によって掘削され、貞享3年(1686)に完成した。油津港の北に広がる日向灘海上交通の難所で、風見のための長期滞在で港町が賑わった。堀川運河により分断された油津の町をつなぐ橋として、明治36年(1903)飫肥の石工・石井文吉により単アーチの石橋・堀川橋が架けられた。

参道を兼ねた堀川橋を渡ると、正面に朱色の一の鳥居が構える吾平津(あびらつ)神社がある。古くは乙姫神社とも呼ばれ、港町油津にふさわしく海の守り神として崇拝されている。油津神社ともいうが、地元では単に「乙姫さん」と通称している。一の鳥居の右手前に、海に向かって手をあわせる吾平津姫銅像が立っている。

創始は不詳だが、社伝によると、元明天皇の時代、和銅2年(709)の創建という。江戸時代には乙姫大明神と称して、飫肥11社の一つとして歴代藩主の崇敬篤く、明治維新に際し伊東祐帰知事の意により吾平津神社と改称され、昭和8年郷社となる。二の鳥居、三の鳥居と続く。

油津という地名も吾平津神社の祭神・吾平津姫に因むともいわれ、吾平津(あいらつ)から「アイラ、油」と転訛したと考えられている。三の鳥居をくぐり石段を上がると社殿が見えてくる。

社殿の手前には御門神社が二つ向き合っている。一つには、櫛磐間戸命が祀られている。神使は猿と思われる。

もう一つには、豊磐間戸命が祀られている。『古事記』によれば、両神とも天孫降臨の際、瓊瓊杵命の従者であった御門の神とされる。こちらの神使は鶏のようだ。

拝殿は左右に翼を持った形で、昭和48年に改築された鉄筋コンクリート製の権現造である。吾平津神社の主祭神である吾平津毘売命は、神武天皇が狭野命と称され、日向にいた頃の妃で、この地の吾田(あた)の小椅(おはし)の娘だったと伝えられる。

古事記』によれば、神武天皇との間に多藝志美々命と岐須美々命の二人の皇子ありとされ、『日本書紀』によれば手研耳命という皇子ありという。神武東遷の折には皇子や群臣は同行したが、吾平津毘売命は当地に残り、東遷の成功と道中の安全を祈ったという。

つまり、吾平津毘売命は地元妻であり、後の妻が正妻になるので、姫と呼ばれているのである。本殿も鉄筋コンクリート製の神明造である。幕末の文久3年(1863)飫肥藩が米英列強の脅威に備えて北側台地に砲台を築こうとしたところ、銅鏡、太刀、玉類が出土し築造は中断された。この前方後円墳の場所は、堀川が開削されるまで神社と続いた境内だった場所なので、吾平津毘売の御陵ではないかと考えられている。

境内北側には、末社の乙姫稲荷神社が祀られている。