半坪ビオトープの日記

土湯温泉


岳温泉から宿泊地の土湯温泉に向かう。土湯の地名は、「突き湯」から変化したといわれる。その開湯伝説は二つある。国造りの神・大穴貴命が陸奥の国に下る際、荒川のほとりを鉾で突いたところ、そこから湯が湧き出たという。また、用明2年(587)聖徳太子の命により用明天皇の病回復祈願と仏教布教のため東国に旅していた秦河勝が病に倒れた夢枕に、聖徳太子が現れ、岩代国の突き湯に霊泉ありと告げた。そこで河勝はお告げ通り温泉を発見したという。土湯の名は文治5年(1189)吾妻鏡で登場し、現在70カ所ほど源泉を有する。
土湯観光協会の脇を流れる東鴉川沿いには親水公園があり、上流には滝の真上に架かる「滝のつり橋」がある。

土湯温泉こけしは、鳴子・遠刈田と並び日本三大こけしの一つに数えられている。約160年前に誕生したとされる土湯こけしの特徴は、簡素・素朴といわれる。描彩は頭頂に蛇の目模様、前髪とビンの間には赤い髪飾りの「カセ」が大きく描かれる。顔はクジラ目や二重まぶたが土湯系。丸いたれ鼻におちょぼ口。胴模様はロクロ線を基本とする。温泉街にある「土湯見聞録館」には、東北のこけし約1000本が展示されている。

土湯温泉街の西のはずれに興徳寺があり、その左脇の石段を上がると太子堂こけし堂がある。石段入り口に土湯八景「松が窪の夜雨」の木製歌碑が立っている。
「名にしほふ信夫の山の松ヶ窪 やみ夜さやけき雨のおとかな」
江戸時代の文化・文政年間、土湯温泉二本松藩で、藩主も参加したとされる「土湯連」という俳句同人があった。その土湯連を中心に土湯の景観を詠んだ俳句が「温泉八景」で、現在の「土湯八景」の原形となった。
興徳寺の創建は、建長2年(1250)親鸞の高弟・性信上人により開かれたのが始まりと伝わる。当初は法得寺と称する真宗本願寺派だったが、元和元年(1615)丸山禅師により再興された際、興徳寺と改称し臨済宗に改宗している。

石段を上がった突き当たりの右手に、聖徳太子堂が建っている。現在の建物は、享保11年(1726)に再建されたもので、安産・育児・学問の信仰の対象になっている。

聖徳太子堂の創建は、推古天皇12年(604)と伝えられている。聖徳太子が全国の国府に自ら彫り込んだ尊像を祀る堂宇建立を目指し家臣を使わせた。当地方には秦河勝が派遣されたが、志半ばにして重病となり寝込んでいると、夢枕に尊像が現れ、土川村には霊泉があり、湯浴びすれば平癒するとお告げを受けた。お告げ通り霊泉を見つけ平癒した後、再び尊像が夢枕に立ち、この地に留まり多くの人達の難病を治すのが私の役割であると告げた。そこで河勝は堂宇を建立し尊像を安置したという。
何十年に一度の開帳のみで秘仏とされてきたが、写真を見ることができる。太子16歳の木造聖徳太子立像は、像高142cm、上半身袖なしの肌着をまとい、下衣は丈の短い下袴をつけ、沓をはき直立する。頭部には人毛が植え込まれ、その植髪は肩から胸元まで垂髪となり、極めて写実的である。こうした植髪裸形の太子像は稀で、全国的にも5ヶ所の寺でしか確認されておらず、福島市の指定有形民俗文化財とされている。
堂内左手には赤い布を掛けられた「おんば様」が祀られている。江戸時代以前から全国で庶民に広く信仰されたおんば様で、母子とも健康な出産を願う安産信仰である。福島県では会津地方で盛んに信仰され、約80もの寺におんば様が祀られ、祭礼が行われている。赤い布でよく見えないが、昔の出産スタイルで片膝を立てて座っており、座産の姿が安産になると信仰されていた。

聖徳太子堂とは反対に石段突き当たりを左に折れると、「松根湯釜」がある。第二次世界大戦の末期(1945)燃料欠乏に対処する国策として、松の根を乾溜して原油を採取する施策を決定した当局は、生産倍加の供出を厳しく町村長に迫った。連日の空襲下、銃後を守る主婦と老幼のみで過酷な松の根掘りに従事した。この釜は聖徳太子堂の梵鐘が金属回収令に基づき供出させられ、昭和46年再鋳されるまでの間、村に平和の音を響かせて梵鐘の代用を勤めたもので、ここに歴史の証言として安置されている。

聖徳太子堂の手前に鐘楼があり、梵鐘がつられている。その梵鐘は昭和46年に再鋳されたものである。

聖徳太子堂と鐘楼の間には、経堂が建てられている。

鐘楼の手前の石段をさらに上に登ると薬師こけし堂が建っている。聖徳太子薬師瑠璃光如来信仰の志篤く、温泉の功徳を以て病苦を除く衆生済度の本尊を祀るべく、土湯温泉に薬師堂を古くから営み鎮護してきたが、大正2年の水害で流亡したため、薬師如来像はここ興徳寺の経堂に仮遷座し、薬師堂はようやく昭和49年にここに再建された。寛政3年(1791)に奉納された算額が残されている。

堂内には多くのこけしが奉納されているが、木地業の始祖とされる惟喬法親王も併せて祀られている。惟喬法親王文徳天皇の第一皇子だが、所以あって皇儲を第四皇子に譲り、仏門に帰依して近江国愛知郡小椋荘に籠居し、木地業を草創し世に広めたという。土湯こけしもこの流れを汲んでいるという。

松根湯釜の後方に小道があり、その先に山神も祀られている。古くは土湯と会津若松城下を繋ぐ街道であった。社殿がなく石祠や石碑だけの山神社だが、祭神は大山祗命と木花咲耶姫であり、旅人や運送業社が街道を利用する度に道中の安全を祈願したという。