半坪ビオトープの日記

瑠璃光寺、五重塔


山口県庁のすぐ北の香山公園に、「西の京・山口」を代表する観光名所、国宝の五重塔で知られる曹洞宗瑠璃光寺がある。中門には保寧山と山号が大きく掲げられている。中門の両側には袖回廊が巡っている。

中門のすぐ右手前に、瑠璃光寺の鎮守石殿がある。瑠璃光寺は古く吉敷郡仁保の地にあったが、元禄3年(1690)にこの地へ移ってきた。この石殿は当寺が仁保にあった頃、当山16世重堂専宗和尚が、寺の鎮守として慶安3年(1650)に造立したと刻銘からわかる。

石殿の右手に梵鐘の案内がある。回廊の奥に鐘楼があり、そこに吊るされている梵鐘は、当寺が仁保から移転する前に、瑠璃光寺の末寺であった光明禅寺が廃寺になったときに移ってきたもので、天文元年(1532)に鋳造されている。撞座の蓮華座の中房に花弁を造る作風は珍しいといわれる。

回廊の中に入らず、右手先に見える五重塔を見にいく。瑠璃光寺五重塔は国宝に指定されており、京都の醍醐寺、奈良の法隆寺五重塔と共に「日本三名塔」の一つとされているたいへん美しい五重塔である。

今から約570年位前、この地を治めていた第25代領主大内義弘が、ときの将軍足利義満と戦い泉州堺で戦死した。その後を継いだ弟大内盛見(第26代)が兄の霊を弔うため建てたのが、この五重塔である。

塔の高さは31.2m、屋根は桧皮葺で大体和様形式で造られている。特色として各層とも軒の出が深く、二層には手すりがあるが三層以上にはない。また、初層内の仏像を祀ってある唐様須弥壇が珍しく円形である。

五重塔のさらに右手前に、若山牧水の歌碑がある。牧水が21歳のとき、東京から故郷宮崎に帰省の途中に五重塔を訪れて詠んだもので、碑の書は牧水夫人喜志子の筆である。
はつ夏の山のなかなるふる寺の 古塔のもとに立てる旅人 牧水

ふたたび中門前に戻ると、中門の左手前に大内弘世の銅像が建っている。大内氏の始まりは百済聖明王の第3皇子・琳聖太子と伝えられ、推古天皇19年、周防国(今の防府市)に着岸し聖徳太子より周防国大内県を賜り、多々良を氏としたといわれる。「大内」と称し始めたのは平安時代、16代盛房の頃で、本拠地が「大内」という地名だったことが由来とされる。長門周防国の守護に任じられた24代大内弘世は1360年頃、政庁を山口に移し、京に模した街づくりを始めたといわれる。中央に本拠を置き、街を縦横に区画、街路名を大路・小路と京風にした。一の坂川は京の鴨川に見立てられた。第31代大内義隆キリスト教宣教師サビエルに日本で最初に布教の許可を与えたが、重臣陶氏の反乱で自刃に追い込まれ大内氏は断絶した。山口市内には大内氏ゆかりの神社仏閣が数多く残り、大内文化が色濃く香る街とされるが、その大内文化の始まりが大内弘世ということである。