半坪ビオトープの日記

大内氏館跡、龍福寺


山口県庁から約1km東に大内氏館跡があり、その中心に龍福寺が建っている。龍福寺は、建永元年(1206)大内満盛が創建した臨済宗の寺で、元は白石の地にあって宝珠山瑞雲寺と称していた。延元元年(1336)大内弘直が再建して弘直の菩提寺となった。のち享徳3年(1454)大内教弘が雪心和尚を迎え中興開山として曹洞宗に、寺号も瑞雲山龍福寺と改めた。その後、大内義隆後奈良天皇に奏請して勅願寺として官符を請うて重建したが、天文20年(1551)大寧寺の変に伴う兵火にかかり焼失した。その後、弘治3年(1557)毛利隆元は自害した義隆の菩提寺として、龍福寺を大内氏館跡に再興した。ところが明治14年に火災に遭い、禅堂と山門を残して焼失した。そこで再建に際し、元大内氏の氏寺であった興隆寺の釈迦堂を移築したのが今の本堂である。本尊は釈迦如来である。本堂は桁行5間、梁間5間で、屋根は入母屋造桧皮葺。文明11年(1479)建立の和様の代表的寺院建築で、国の重文に指定されている。

本堂手前左手には、八重咲き濃紅色の緋寒桜が満開に咲き誇っていた。

小さな山門を振り返ると、3月下旬なので桜も咲いていれば、緋寒桜の他に黄色いサンシュユも咲いている。

本堂の左手前にある龍福寺資料館の入り口左には、大内義興の馬上展望像がある。館内には、大内氏にまつわる貴重な資料が所狭しと展示されている。大内歴代画像も展示され、中でも大内政弘を描いたものはここだけの貴重なものである。一番右は画僧の雪舟像である。

4枚並ぶ画像のうち右3枚が大内義隆の画像である。3枚のうち一番右の絹本着色画像は大内義隆七回忌の弘治3年(1557)に毛利隆元が描かせたもので、義隆自刃の際、菩提戒を授けた大寧寺住職異雪慶珠の賛がある。山口県の重要有形文化財に指定されている。龍福寺蔵である中央(ここでは左)の画像は、今は絶えてしまった益田家に伝来した書写で、原画は散佚している。賛は天文13年(1544)のもので義隆生前の資料として貴重とされる。

左の画像は、義隆が自刃した大寧寺に伝わる画像の複製である。

左上は大内氏館の復元図である。大内氏24代弘世は京都を真似た町造りをし、この地に居を構えた。大内義長の頃には東西162m、南北168mのほぼ方形の館であった。現在も発掘が続く大内氏館跡は国の史跡に指定されている。龍福寺本堂の右手前に池泉庭園が、左奥に枯山水庭園があった。

館跡である龍福寺境内から、昭和53年には金色の瓦が出土するなど大内氏の財力をしのばせる物証となっている。輸入陶磁器など出土品が多く展示されている。

左の金箔土師器は、漆を塗った上に金箔を貼りつけたもので、館跡の井戸から出土した。

館跡から出土した瓦は、俗に大内瓦と呼ばれている。上の鬼瓦は、龍福寺玄関の鬼瓦で江戸時代のものである。