半坪ビオトープの日記

大寧寺、大内義隆墓所


山門跡から西へ大寧寺の境内を、提灯の並ぶ道に沿って進むと鳥居の先に、長門豊川稲荷神社がある。昭和36年(1961)愛知県妙厳寺の守護神豊川稲荷が勧請祭祀された。祭神は仏法を護持する叱枳尼真天(だきにしんてん)という仏で、福徳成就の大請願をもつ。明治になって神仏分離政策で妙厳寺豊川稲荷を分離しようとする権力に直面したとき、当寺45世簣運泰成和尚が三条実美を説得した因縁によって結ばれているという。

大寧寺境内には、大寧寺で自害した大内義隆主従の墓のほか、大寧寺開基で長門守護代であった鷲頭弘忠の墓、足利幕府の管領であった上杉憲実の墓、京都の公卿で左大臣を務めた三条公頼の墓、萩藩毛利家重臣墓群がある。大内義隆主従の墓と三条公頼の墓は、本堂左から裏山に登ったところにあるが、その他の墓は長門豊川稲荷神社入り口の右の斜面の広大な墓地に広がっている。

とりわけ多いのが萩藩毛利家重臣墓群である。江戸時代初期、萩藩の財政再建に尽力した益田祥(牛庵)の墓をはじめ、井原、山内、天野、桂等の寄組、大組の上級藩士70余家、250余墓がある。このように藩重臣層の墓が集中する例は県内にはなく、全国的にも稀有である。それは大寧寺が江戸初期より中国、四国、九州一円の僧録司禅宗寺院行政を管轄する役目)の地位を占めていた高い寺格によると考えられている。しかも、墓石の態様も五輪塔、宝篋印塔、自然石塔、板碑型、石幢型、笠塔婆型、磨崖形式等多種にわたり、歴史的・学術的にも貴重とされる。

萩藩毛利家重臣墓群の右脇から急な冷泉坂を登り、本堂裏手にある大内義隆主従の墓に向かう。途中に地蔵菩薩像などもある。

やや開けた平坦地は経蔵跡と呼ばれる。経蔵は、大内義隆重臣・冷泉隆豊が腹を掻き切ってハラワタを天井に投げつけたといわれる場所だが、今は跡だけが残る。

さらに急な坂道を登っていくと、ようやく「遊仙窟」と呼ばれる墓域が現れる。

「遊仙窟」の右手には、大内義隆・義尊父子の墓とその従者31人の墓が配置されている。墓所には、経蔵で悲壮な最期を遂げた冷泉隆豊や同じく最期まで義隆に忠誠を尽くした黒川隆像、たまたま義隆に招かれ争乱に巻き込まれた公家の三条公頼武田信玄の義父)などの墓も含まれる。

正面左の宝篋印塔が大内義隆の墓で、右が子の義尊の墓であり、墓の脇に19基の墓標が立つ。陶隆房(晴賢)の反乱によって山口を追われた大内義隆主従は、この大寧寺で死を覚悟して行水、白装束で異雪和尚の法話を聞いた。その後、義隆は重臣・冷泉隆豊の介錯で自害した。辞世の句は「討つ人も討たるる人も諸ともに如露亦如電応作如是観(にょろやくにょでんおうさにょぜかん=人生は露、稲妻のようにはかないものだ)」とある。4年後、陶隆房(晴賢)も厳島毛利元就に敗れ自害した。

大内父子の左の墓域には、右から二条尹房、二条良豊、三条公頼(石室付き)、持明院基規の墓があり、10基の墓標が立つ。

「遊仙窟」の左側には、大寧寺歴代住職の墓がずらっと並んでいる。

開山石屋真梁から43世までの住職の無縫塔が配置されていて、中世期の無縫塔形式の変遷を知る上で貴重とされる。

冷泉坂の脇にはいろいろなスミレが咲いていた。これは主に日本海側に分布するスミレサイシン(Viola vaginata)であろう。