半坪ビオトープの日記

香取神宮、奥宮


楼門の前の道を楼門に向って左に進むと、境内の外れに末社の馬場殿神社がある。祭神は、建速須佐之男命である。これは古事記での名前で、日本書紀では素戔男尊である。

馬場殿神社の左には末社の市神社・天降神社がある。市神社の祭神は、事代主命であり、天降神社の祭神は、伊伎志爾保(いきしにほ)神と鑰守(かぎもり)神である。事代主命は、大国主命の子で、父に代わって天照大神の使者に国譲りの意を伝えた神である。伊伎志爾保神と鑰守神についてはよくわからない。

さらに奥宮に向って左(西)にかなり進むと、要石の奥に進んだ道と合流する。奥宮の参道を正面に見て、その左に武術天真正伝香取神道流の始祖飯篠長威斎の墓がある。

剣術だけでなく、居合術、棒術、薙刀術などの総合武術を香取の地に今でも伝承する古武道で、始祖の飯篠長威斎(1387-1488)は、香取郡飯笹村(現多古町)に生まれている。剣術で有名な塚原卜伝(1498生)の養家の祖父は、飯篠長威斎の高弟であり、養父も神道流の伝を受けている。左の小さな墓石が、飯篠長威斎の墓である。

約37,000坪の広さを誇る香取神宮の境内は、香取の森とも呼ばれ、老杉が鬱蒼と茂り、別名亀甲山という。その森の奥にある奥宮は、経津主大神の荒御魂を祀っている。

現在の社殿は、昭和48年の伊勢神宮遷宮の折の古材によるものである。見た目は伊勢神宮の摂社末社のようである。

奥宮の参道の向いに祖霊社という社がある。由緒、詳細はよくわからないが、香取市電子版「広報かとり」の近年の要約等からいくつかのことが分かった。

この辺りには明治元年まで神仏混合による香取神宮の神宮寺・真言宗香取山金剛宝寺があったが、廃仏毀釈で本殿・三重塔・鐘楼堂等が取り壊され、ほとんどの仏像・仏具・経典類も棄却・売却された。運良く本殿懸仏4躯が篤志家に買い戻され、観福寺に奉納された。また、神宮寺跡とされるこの祖霊社にある手水鉢には、十一面観音堂仏前・元禄13年(1700)銘が刻まれているというが、残念ながら確認できなかった。香取神宮の境内古図からも古くから神宮寺があったことが分かるが、元禄13年といえば香取神宮徳川綱吉により造営された年であり、神宮別当寺も同時に修復・拡充されたと思われる。