半坪ビオトープの日記

鹿島神宮、要石


奥宮の所から参道が右に曲がって、要石に向う。
この道の両側も鬱蒼とした鹿島の森であり、少し進むと道が交差する左側に、愛嬌のある大鯰の碑がある。
要石が大鯰の頭を押さえて地震を防いでいるという伝説を基に、武甕槌大神が大鯰の頭を抑えている。
文化14年に(1817)小林一茶は、鹿島神宮を訪れて次の句を詠んでいる。
大なへ(地震)にびくともせぬや松の花 一茶

参道の右側には奉納の石碑が立っている。梅、欅を奉納したものである。

参道の突き当たりの一角には、石塔、孝阿の句碑、要石、芭蕉の句碑が集まっている。
一番手前の道の真中に立つ石塔は、太々神楽と記された安永5年(1776)銘の石塔である。

石塔の右手に鳥居と柵で囲まれた祠の真中に、要石がある。

地震を起こすと信じられた大鯰の頭を押さえているという要石は、見た目は小さいが地中部は大きくて決して抜けないと言い伝えられている。「水戸黄門仁徳録」によると、徳川光圀が七日七晩要石の周りを掘らせたが根元には届かなかったという。
形状は凹型である。先ほど見てきたように香取神宮の要石は凸形であり、鹿島神宮の要石と地下で繋がっているともいう。

要石の右手前に芭蕉の句碑がある。出典は「阿羅野」(巻之四)で、延宝8年(1680)芭蕉37歳の句である。文政6年(1823)帆津倉(現行方市三和)の俳人洞海舎李尺により建立された。
枯枝に鴉(あ=からす)のとまりけり穐(秋)の暮 芭蕉

要石の左正面には、(船茂)孝阿が詠んだ句碑が立っている。
霰降る鹿島のもりの要石動かぬ国の鎮めなるなり 孝阿(明治27年奉納)
大鳥居跡脇の社号標の奥にある万葉歌碑を見逃してしまったが、その常陸国防人・大舎人部千文の次の万葉歌を連想して詠まれている。
霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍(すめらいくさ)にわれは来にしを  (巻二十-4370)
さて、これで香取神宮鹿島神宮を一通り見てきたわけだが、並び称されるにしてもどこか異質な感じがする。まず、鹿島神宮の摂社・末社香取神宮の摂社・末社はほとんど共通のものがなく、香取神宮に摂社の鹿島新宮があるのに、鹿島神宮には香取神宮に関係するものは何もない。今から千年以上前には、霞ヶ浦一帯は大きな香取海の入り江の入口で、香取・鹿島神宮は向き合っていたという。鹿島神宮は、古事記を編纂した太安万侶の太氏(多氏)との関わりが深く、記紀編纂当時の実力者藤原氏との関係も香取神宮より深いといえる。どちらも東国の蝦夷を抑える武道の神として祀られるとはいえ、北側の鹿島神宮の方が、境内も広く少し格上のように思われる。