半坪ビオトープの日記

息栖神社、神門


香取神宮の東、鹿島神宮の南、茨城県神栖市息栖に息栖神社がある。社号は「いきす」と読むが、古くは「於岐都説、おきつせ(=沖津洲)」と呼ばれていたことから、元は香取海に浮かぶ沖洲に設けられていたと考えられている。
二の鳥居の右にある社号標に、「東國三社息栖神社」と刻まれているように、古くから鹿島神宮香取神宮とともに東国三社の一つとして信仰された。東国三社巡りとは、江戸時代に「お伊勢参りのみそぎの三社参り」と呼ばれるほど篤い信仰を集めた旅だった。

参道を進むと左側に稲荷神社が祀られている。

さらに参道を進むと左に朱塗りの手水舎、正面に神門が建っている。

手水舎の手前の灯籠は、三つ穴灯籠であった。

神門も朱塗りで派手だが、造りはそれほど重厚ではない。弘化4年(1847)の建立と伝えられている。

神門をくぐると力石がある。祭礼の際に若者達が力競べをしたと伝えられている。
とりわけこの石は、対岸の侠客、笹川の繁蔵が力試しをして奉納したものと伝えられ、「繁蔵の力石」ともいわれている。
力石の右に松尾芭蕉の句碑がある。貞享4年(1687)に鹿島根本寺の仏頂和尚を訪ねた芭蕉は、鹿島神宮潮来長勝寺や水郷のほか、息栖神社にも足をのばしたといわれる。
「この里は気吹戸主の風寒し」 芭蕉

参道の右側には境内社が合祀されている。向って右側には、香取神社、手小后神社、八龍神社、江神社、若宮の5社が合祀されている。左側には、鹿島神社伊邪那岐神社、高房神社、奥宮の4社が合祀されている。

さらに息栖ゆかりの歌碑がいくつか建てられている。説明板によると、鎌倉時代の「新和歌集」(藤原為氏撰)の中に息栖周辺を詠んだ歌が収められているという。「藤原時朝、鹿島のおきす社にまいりて彼社僧に十首歌すゝめ侍りける」とあり、次の歌はそのうちの一首という。
「海原や沖つ潮合に立浪の鎮めがたきは心なりけり」理然法師(息栖神宮寺僧)
また、藤原時朝が鹿島詣での際、歌仲間と詠んだほととぎすの歌がある。藤原時朝は、鎌倉時代歌人で、三十三間堂などにも奉仏、納経した人であり、常陸国の初代笠間城主にもなっている。
「鹿島潟沖洲の森のほととぎす船をとめてぞ初音ききつる」藤原時朝

右の歌は、「われのみと待ちつる暮を郭公(ほととぎす)またたか為に鳴てすくらん」諦如法師
左の歌は、「里とをき山のすそのゝほとときすたか為になく初音成らむ」稱佛法師