半坪ビオトープの日記

根本寺


鹿島神宮の西1kmほどに臨済宗の古寺、瑞甕山根本寺(こんぽんじ)がある。
本堂の脇に寺史を記した石碑が建っている。要約・補遺すると、推古天皇21年(613)聖徳太子推古天皇の勅命を奉じ、鬼門鎮護と衆民修法に依り、護国興隆の発願をもって、本尊に東方薬師如来を安置して建立された勅願寺であるという。開祖は高麗の恵潅大僧正で、始め三論宗に属し、その後、法相、天台と移り法灯を掲げる。

建久2年(1191)源頼朝に再興され、室町時代には臨済宗に改められた。山門をくぐると三つ穴灯籠の向こうに本堂が構えている。
松尾芭蕉の「鹿島紀行」に依れば、貞享4年(1687)芭蕉は江戸で親交のあった仏頂禅師に月見に誘われて、門人の河合曽良、宗波とともにこの寺を訪れ泊まっている。

芭蕉が江戸市中から深川の草庵に移ったのは、延宝8年(1680)の冬である。この頃根本寺の住職仏頂禅師は、徳川家康に寄進された根本寺の寺領50石が鹿島神宮に取り上げられたことを不服として寺社奉行に訴え出ていた。その際の江戸の仮住まいが、前住職冷山和尚が結んだ深川大工町の臨川庵であり、芭蕉仏頂禅師と運命的な出会いをして、禅師が係争に勝訴するまで1年半ほど川向こうの臨川庵に参禅する日々を送ったのである。
境内左手に平成9年に建てられたばかりの新しい芭蕉の句碑がある。
「寺にねてまこと顔なる月見かな」 はせを

建物は元治元年(1864)天狗党の争乱によって焼失し、現在の本堂は昭和57年(1982)に再建されたものである。ここから北西1kmほどの所に、23人が処刑された天狗党の墓があるという。

本堂の右手前には宝暦8年(1758)銘のある、県内最古の芭蕉の句碑(左)が建っている。
「月はやし梢は雨を持ちながら」 はせを
ついでに「鹿島紀行」でのほかの歌と句も挙げておくと、
「おりおりにかはらぬ空の月かげも ちぢのながめは雲のまにまに」和尚
「雨にねて竹おきかへる月見かな」 曽良
「月さびし堂の軒端の雨しづく」 宗波

境内にはほかにも公雄の句碑が建っている。(滝澤)公雄とは、明治後期から大正にかけての俳人で、江戸時代から隆盛を極めた芭蕉堂の主宰でもあった。東京都文京区の慈眼院(澤蔵司=たくぞうす稲荷)にも句碑があるという。
祖翁の遺約をしたひやうやく古の地につえをひきて
「今日に逢ふ時雨もう禮し旅衣」 公雄